さくらちゃん教

誰かの言葉に魅せられて離れられない時ってありますか。その人を尊敬し、その考えを尊重しそこに重きを置いて行動した時、それはもう宗教なのかもしれません。

Tinderと与謝野晶子

ねえ、突然だけど、あなたは”お見合い結婚”ってどう思う?

 

きっと、あなたは当たり前のように、「自分で決めた好きな人と結婚したいに決まってるじゃん」って言うと思う。でも、昔は、”お見合い結婚”は当たり前だった。そして、”自由恋愛”なんて不埒だったよね。「生涯一人の男性とだけでなく、数人の男性と体の関係を結ぶなんて不潔な女」って多くの女性が思っていた。それが、今では、自分自身ではなく親の決めた相手と結婚する’’お見合い結婚’’の方が、愛もなく、古くさくて、時代遅れだと思われている。

 

じゃあさ、将来はどうなると思う?

 

きっと、10年後には、”出会い系”で出会った人との恋愛を不埒だと思ってるあなたは、

「今どきまだ、3対3のお見合いとか、メンバー30人のサークルとか、全校生徒150人の高校とか、社員数3000人の会社とかの中で、恋愛しちゃってるの?」

って言われるわ。10年後には、もっと広い視野で出来るだけ一番自分にぴったりな人を探して恋愛するのがファッショナブルになっているはずなのよ。

 

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今日はTinderについて話そうと思うから、まずはTinderの基本的な仕組みを説明する。

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Tinderは基本的に写真メインで、異性をlikeかunlikeに仕分けていく。それでお互いにlikeすればマッチして、そこでやっとメッセージがやりとり出来るようになる。likeは12時間に100回までしかできない。

(無料版では)相手が自分をlikeしたかどうかは出てこないようになっている。けど、例外で、1日に一回だけ押せるsuperlikeだけは相手に自分がsuperlikeしたことを主張できるようになってる。

 

なんとなくわかったかな。

 

 

 

そう、みんな気づいていると思うけど、世の中には生きているうちにはとても会いきることの出来ないほどの人がいる。出会い系をやるとそのことが普段よりも濃く実感できる。絶対に、今大好きな彼よりも、カッコよくて優しくて本の趣味があって生活リズムが同じで気の合う人が世の中にいる。そういう考えも浮かばない人はまずこの話題からはサヨナラだけれど、ほとんどの人は気づいているはず。恋人に振られても、その人に似た人はいるだろうし、もっと良い人生を共に歩める人はいるはずなの。

だから、自分にとって大切な人だって思うのには、その人の特徴や見た目よりももっと大事な要因があると思う。

じゃあ何が大事かわかる?

それは、「共有した時間」だわ。別れた恋人みたいな人はきっとどこかにいるだろうし、難しくてもいつかは同じような人に会えるはず。そんなこと誰だって分かっているのに、失恋で傷つくのは、どうして。その人の、少しぽかんとした顔つきよりも、人より頭が良くて気づかなくていいことにも気づいてしまうその可哀想な性格よりも、その人と偶然出会って偶然起きたわたしと共有した出来事が、唯一無二だからに決まってるの。

家族だってそうだわ。ずっと一緒にいるから、別れる時、辛い。

 

でも、別れは必ず来るものだし、みんな、まだ見ぬ大切な誰かを探している。その誰かを今よりも、もっと広い視野で探せる時代が来るような気がするの。それにはまだ、Tinderじゃ不十分だと思う。それでも、Tinderはすごい発明じゃないかな。

 

 

私のTinder歴を話すと、

1ヶ月前:女として3日(誰にも会ってない)

              男として1日(ある東大男子の替え玉をして、1日に2人とラインを交換させてあげた)

最近      :女として1週間(3人と会った)

 

一ヶ月前は遊びでやっていたんだけど、最近始めたのは、本気で探したらちゃんと出会えるんじゃないかと思いついたから。だって、大好きだった前の恋人2人もTinderやっていたんだもの。それなら、Tinderをやれば私の好きな人も見つかることなんて最初から分かってたわ。

 

Tinderは思ってたよりも楽しかった。少しめんどくさいけど、色んな人と話せたし、素敵な人とも出会えた。

Tinderで自分の好みの人と出会うために結構たくさんのことを考えた。かなり使いこなせるようになったと思う。そこで、私が考えたTinder攻略を話すことにしたわ。

 

 

もう最初に、Tinder攻略において一番かつ唯一有用だと思うことを教えるわ。

それは、「一度、異性としてTinderを使ってみること」

 

 

ほんとうは、もっとぐちゃぐちゃと具体的な攻略法を書こうかと思ったんだけれど、メッセージもプロフィールも多種多様なものだし、絶対にこうだっていうやり方はどうしても断定できない。そもそも狙いたい子とか好みのタイプはそれぞれ全然違うんだから、メッセージとかプロフィールの作り方も変わってくるでしょ。それはもう、自分で慣れるしかないと思うのよね。そりゃあ、tinder系YouTuberの言ってる通りにしてみてもいいと思うけど、私だったらそんなつまらない人とはわざわざ会う価値を見いだせない。tinderにはやりもくのひとが多数いるけれど、わたしなら、もしやりもくでtinderを使うとしても、どっちにしろ、出会う価値を感じる面白い人がいいなって思ったりする。女の人は、容姿だけじゃなくて、その人の一生懸命な性格とか言葉遣いとか知性とかそういうところに性を感じる。だから、ただの猿みたいな男と寝たいと思わない。

 

 

 

話が逸れたけど、つまり、人によって、自分自身の特徴も出会いたい人も異なるわけだから、異性に扮してtinder試してみるときは、出会いたい人になりきってみる。

そうすると、好みのタイプがどんなプロフィールを書くか想像することになって、本番でスワイプするときに、どんな人を選べばいいかの勘が結構鍛えられる。

異性に扮することで、同性がどんなプロフィールでどんなメッセージをしているかも分かる。ライバルがどんな人かわかる。

 

そして、自分自身でTinderをやるときは、自分の特徴とか特技とかを押し出していった方が結局のところいいと思う。

たとえば、私がいいなと思ったのは、「サーフィンを教えてくれるっていう人」「プログラミングとかFXを教えてくれる人」「おすすめの本をちゃんとどこが良いのか説明付きで教えてくれる人」「ブログの感想を丁寧に言ってくれる人」「凝った占いをしてくれる人」「上手な写真の撮り方を教えてくれる人」「自分で作ったグルメマップを共有してくれる人」とか。逆に、ありふれているのが「サークルとか地元がどこかとかどうでもよい質問ばっかしてくる人」「すぐに会いたいとか飲みに行こうって言ってくる人」「趣味が旅行飲み音楽読書映画スポーツ観戦漫画おいしいもの巡り(本当に傾倒してるなら見ものだけれど、興味深さを感じるほどこれらの趣味に傾倒している人は数少ない)」。

 

あと、わたしが男としてtinderやってみてわかったことといえば、皆知っていると思うけど、男女のマッチ率の差とメッセージの大変さの差。プロフィールを何も考えず、当たり障りのないように作ってしまうと、誰の目も引かないものになってしまう。たとえ、どんないい男でも意味ない。会ってからは、人間性とか相性で勝負ができるけれど、会う段階までいかなければどんなに面白い話ができてもどうにもならない。結構プロフィール作りは大変。

東大男子の替え玉をしたときは、かなり骨を折ったけど、ものは言い様だから会うところまではどうにかできた。本気でTinderやるつもりなら、異性としてやって、少し頭使えば意外と上手くいく。大切なのは想像力だから。わたしができるんだから頭のいい皆さんにもできるはず。

 

 

Tinderをやって、自分の好みの人を見つける慧眼が鍛えられた。Twitterをやって、文章力が鍛えられた。どちらも、沼にハマると危険だけど、やる価値はけっこうあるのよ。

 

 

人に不埒と言われようが、道徳的にかけていると言われようが自分の好きなように恋愛すればいい。あの時代に自由恋愛を貫いた、与謝野晶子は私は好き。私は現代の与謝野晶子になる。そして、『みだれ髪』に登場するようなセクシーな男の人を見つけるわ。

 

 

 

【東大女子が選んだ】上野千鶴子の「おすすめ本」五選、フェミニズムを知ろう。

こんにちは。

最近、上野千鶴子さんにどハマりしているさくらちゃんです。

上野千鶴子さんといえば、最近、東京大学の入学式の祝辞で話題になりました。私は二年生なので直接祝辞は聞いていませんが、ツイッターで回ってきてすぐ読みました。大変な話題になりましたよね。彼女の言っていることは、賛否両論こそあれ、東大生の間でも多くの意見や議論を掘り起こして、さすが、かっこよく炎上を起こしてくれますねえ。

大好きです。

 

と言っている私ですが、私は今年の東大入学式の祝辞が終わるまで、上野千鶴子さんの名前も聞いたことがありませんでした......。教養不足です。しかもハマったのは6月ごろからなので、まだ二ヶ月くらいです。それでも、一冊読んだら、すぐに、次も!次も!となりました。

フェミニズムというのに興味はあるけれど、全く触れたこともないし、どんなものかもわからない、という方々!二ヶ月前の私と同じです。ぜひ、上野千鶴子さんの本を通じて、フェミニズムとは何か、そして自分の性への自己嫌悪や自分とは反対の性への嫉妬の原因と解決策を見つけてください。

そして、一番、彼女の本を読んで欲しいのは、やはり男の人なのです。

フェミニズムは女性の性からの解放を目標としていますが、そこに立ちはだかる問題は、もちろん、男の人と女の人、両方がいて成り立つものなのです。例えば、女性の会社内での権利を主張するとき、いくら女性が協力し団結して、正当なことを言ったとしても、男性側が認めなければ意味がないんです。男女両方がいてこそ起こる問題なので、当たり前ですが、どちらの側からも認められなければいけません。男性の理解が必要なんです。

女性は、自分の弱さを認めるために、男性は、自分の無知を認めるために、ぜひ読んで欲しいと私は思います。

もちろん、読んでもフェミニズムなんか女のたわごとだ、と言うのなら仕方ありませんが、主張を聞こうともしないのに、フェミニズムを否定しないでください。

 

男性には耳が痛い話がたくさんあると思いますが、それは社会に問題としてあるからこそ、そう感じるんです。それを、絶対に、言ったら批判や抑圧を受ける、と分かっていながらも黙っていられなかった強い女達がフェミニストになったんだと思います。全ての女の人にフェミニストの素質があり、全ての女の人にフェミニズムの思想が宿っています。けれど、「批判されるよりは、今のまま穏やかに過ごす選択をした人たち」か、「自分の苦しさを完全に自分や運命のせいにして気付いていない人たち」が、フェミニストではないのだと、私は上野千鶴子さんの本を読んで知りました。

私は後者だったので、自分の抱えていた苦しさが少し軽くなった分、次は主張をするかどうかの迷いが生じることとなりました。私は、今のところフェミニストではありません。でも、皆さんにフェミを知って欲しいとは思っています。

 

どうか、一冊でもいいので、上野さんの本を読んでから、社会に出て欲しいと、特に、強い人達に向けて思います。上野千鶴子さんが、東大の祝辞で「恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください」と言ったのは、弱い人は、権力やお金、思想に負けてしまうから、立ち向かう余裕がないから、出来るとすればあなた達しかいないんだ、というメッセージだと思います。

まだまだ、私自身が言いたいことはあるのですが、今回は、どうしても読んで欲しいのでここら辺で切り上げて本の紹介に行きます。

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1.最初の1冊目は『上野千鶴子のサバイバル語録』

これは、正直、立ち読みでもいいです。タイトル通り、上野さんの語録、いわば名言を寄せ集めて一冊の本にしたものです。私が上野さんの本を読み始めるきっかけとなったのがこの本です。大学の書籍部の入ってすぐのところに置いてあったのをなんとなく手に取りました。名言集みたいなのが好きなので、よくネットやツイッターで調べたりしますが、この時もいくつかの名言にやられました。つまり、とりあえず、これを読んで、やられたと思った文章が引用されている本を見つけて、読むのがいいと思います。それか、彼女の本は、タイトルや目次もしっかりしているので、目次だけで興味があることかどうかが大体わかりますので、開いてみるのもおすすめです。

 

2.これだけは絶対読んで欲しい、必読の一冊『女ぎらい』

女性の皆さん、男性の皆さん、これを読んでください。土下座してお願いします。読んでください。きっと、読んだ後は、いろんな思いに満ち溢れるでしょう。これこそ、上野千鶴子の得意技、「炎上=心の葛藤を巻き起こす」一冊です。自覚のないミソジニー、女性嫌悪をあなたたちは自覚するべきなのです。「いや、おれは女大好きだから全然ミソジニーなんて感じたことないし」と思った、あなた。あなたです。最初の章で上野千鶴子にぶち殺されます。「私は女として本当に生まれてよかったと思ってるから、必要ないわ」と言ったそこのあなた。あなたです。きっと、読後、女であることが苦しくて泣いています。自覚することは苦しいことでもありますが、私はそれでも無知な自分であることよりも多くを知っている自分であることを選びました。結局、知らないという状態の方が苦しかったからです。

女性も男性も誰の中にでもある、ミソジニーを徹底的に上野千鶴子が語っている一冊です。

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女ぎらい:目次1

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女ぎらい:目次2




 

3.上野千鶴子の切れ味のいい文句に負かされたかったらこれ『身の下相談にお答えします』

これは、身の上、ではなく、身の下、ということで、下ネタもたくさん出てきます。一般人からの相談に上野千鶴子がバシバシずばずば回答していくという、質問箱の長文版みたいな感じですね。それにしては、キレすぎているけど。だから、とても読みやすくて、上野さんの非社会的な性格やユーモアたっぷりの文章センスを知りたかったらこれですね。不倫肯定、わはは、自己満足、セックス上等、これぞ、ザ上野節!

ひとは孤独を癒すために恋愛するのではなく、恋愛するからこそ他人にどうしても委ねることのできない孤独を、心底味わうのです。だからこそ、わずかなら出会いが闇の中の星のように輝くことを、あなたはまだ知らないのでしょうか。

 

4.フェミニズムとは少し離れてもなおのこと一層、論理的で読みやすくて価値のある『サヨナラ、学校化社会』

これは、驚きましたね。それまで、フェミやフェミ関係のことばかり、彼女の本で読んでいましたから。「上野さん、フェミ以外もすごいたくさん考えているし、しかも斬新で面白い」って。これは、彼女目線の東大生への長い長い笑える皮肉から始まり、彼女の学校教育への想いを記したものです。今、まさに大学教育を受けている身で、しかも私は東大生なので、彼女の言葉に耳が痛い場面がたくさんありました。例えば、

東大の学生サンは、偏差値が高いだけのふつうの子です。素直だし、ひねくれてもいないし、生活経験は少ないし、幼児的だし、突飛なところもエキセントリックなところもユニークなところもオリジナルなところもなんにもない、ふつうの子。そのふつうの子が、「ヘえ、すごい、偏差値そんなに高いんだ」などと言われて、自分を特別な個人間だとカン違いしているだけです。そのカン違いがどこからきているかというと、これも他者の価値判断を取りこんでいるだけです。

ただ、少し屈折していてアンビバレンツなのは、自分ではこんなふうに特別扱いされることをイヤだと思っていて、そのくせ特別扱いのなかにある特権は一方で享受しながら、それにたいする不安もあるということです。だから、逆に自分の卓越性を表わそうとしたら、自分は特別なことができる特別な存在だというよりも、ふつうの人間なんだけど特別なこともできるんだ、というほうがカッコいい。

東大の子たちは、たとえば自己紹介などの場で、自分がどんなに東大生らしく見えないかということをウリにする傾向があります。自意識過剰なだけでしょう。だから私は、東大生とは自分を特別な存在だと勘違いしているふつうの子たちで、自分がふつうであることを躍起になって証明したがっているふつうの子たちだ、と言っているのです。

 東大生の皆さん、もし、これを読んでいたら耳が痛くなる人はいませんか?他にも、

 私は教壇に立ちながら、熱心に授業に出てくる学生の気持ちがわかりません。「先生、学生時代なにやってたの」と学生から聞かれたら、いまでも戯れに「マージャンとセックス」と言うのですが、それがいちばんヒマがつぶれました。だいたい人生がかったるくて、大学へ行くことはそのなかでももっともかったるいことで、「マージャンとセックス」とほうが、まだいくらかおもしろかったのです」

はい、これが上野千鶴子さんです......。ぜひ、読んでください......。後悔はしません......。

 

5.彼女が客観的にどんな人か知りたいなら『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』

これ、実は、上野千鶴子さんが書いたわけではないです。タレントの遙洋子さんという方が、上野ゼミに3年間学んで、最後に書いた課題が本になったものです。遙さんが書いた上野千鶴子は、かっこよくて、怖くて、愛があって、強い。そして、最後には、言葉でケンカに勝つ秘訣も書いてあります。5冊目は迷いましたが、これです。上野さんが書いたものではないですが、上野千鶴子自体に興味があるならこれを読めばどういう人か分かります。

存在する限りにおいてはしゃべれ。

 

なにもわからないことをわかったような気になってしまうことのほうかわよっぽど怖い

 

言語は経験の全てを表現するにはつねに「不足」であること。そして第二に、それと同じくらい、言語は経験に対して常に「過剰」であること。

 

私たちは簡単に<本能>という言葉を使ってはいけないのである。また、<本能>という言葉に呪縛されてはいけないのである。<本能>という言葉ほど暴力的な言葉、押し付けがましい言葉ない。

 

なによりも正しい言葉遣いに気を配るのが日常。

 

知のコンプレックス:理解できない時、自分のせいだとうなだれるか、なに言ってんのわからないと言えるか。この差が大きい。議論ができるかどうか。

 

物事は一面では言えないし、物事は複雑すぎる。誰も交通整理教えてくれない。私たちは皆独学できたのよ。

 

 

 

 

どうでしょう、読んだ方がいいと思いませんでしたか。

オリジナルは無から生まれない」のです。

ひらめきは情報の落差から現れます。どうぞ、読んで読んで読んで、オリジナルを、ひらめきを、見つけてください。

 

人生・恋愛相談、サマセット・モームがしてくれた【月と六ペンス】

『月と六ペンス』を忘れられない。忘れられないと言っても1週間前に読んだばかりだからまだ1週間の気持ちだけれど。

モームなんて、あの人に出会わなければ私がこの先手にしたことがあったかな。

たぶん、ない。

サマセットモームの本を手にしたのは、あの人と恋をして、失恋して、ブックオフにあの人の好きな作家の本がたまたま安く置いてあって、そんな偶然がなければ読まなかった。でも、それでもそんな経緯を抜きにしても、私はこの本の中でたくさんの対話をしたような気がするの。

たくさんの言葉が突き刺さった。きっと私以外の誰かにもモームの『月と六ペンス』は突き刺さると思う。

 

この本を取ったのは偶然。彼と出会ったのも偶然。

人生なんて全て偶然なのに、「恋はタイミング」なんてナンセンスなこと言わないでよ。

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最近、書きたいと思うことはたくさんあるのに上手に書ける気がしなくて全然ブログが更新できないんです。スマホに、メモばかりが溜まっていきます。ああ、文章を書きたい、文字にしたい、発散したい、誰かに聞いてほしい。

 

作家の喜びは、書くという行為そのものにあり、書くことで心の重荷を下すことにある。他には、何も期待してはいけない。賞賛も批判も、成功も不成功も、気にしてはならない

 

たしかに私が文章を書くのは、自分の爆発しそうで抑えきれない気持ちを文字にすることで少し楽になるような気がするからです。どんなに辛い時も文字にすると少しスッキリします。

でも、どうしても、他人からの評価が気になって仕方ありません。Twitterで自分の本気の思いをぶつけた文章をあげても反応は薄いのに、くだらないネタツイをしたらその数十倍ものいいねがされることがあります。「誰も私のことなんてわかってくれない!」そんな気持ちになってイライラするし、そんなこと初めから分かっているのにイライラしてしまう自分には、もっと、イライラします。

 

人の意見などどうでもいいと公言する人間を私は信用しない。それは無知への強がりだ。彼らが世間の非難を恐れないのは自分の欠点を隠しおおせていると思い込んでるからに過ぎない

 

「自分が正しいと思ったなら好きだと思ったならそれでいい、人の目線なんて気にしない。」こう言う人がたまにいます。私にはその人たちが羨ましくて仕方ありません。私も、この、私を苦しめる承認欲求から解放されて、楽になれたらいいのにって。

でも、周りの人には負けたくないし、バカにされたくもない。

唯一無二の自分でありたいと、独立した個人でありたいと思いながらも、世間の目が気になります。周りの人の意見や言葉に流されてしまうんです。

 

私たちは適当なところで世間と妥協する

 

はい、その「適当なところ」というのを決めあぐねているのです。私は、どこまで他人と支えあって生きて、どこまで一人で立って生きていかなければいけないんですか。

私はもっともっともっと一人で生きていきたい。堂々たる一人になりたい。

そう、ずっと願っているのに、夜、寂しくなると、闇の魔物に襲われて、誰かに「辛い」「寂しい」と言わずにはいられない時があります。

恋人と夜な夜なラインをしたり、Twitterをすればするほど、孤独が深まっていくんです。「誰もわたしのことをわかってくれない」そんな思いばかりが溜まっていくのです。馴れ合おうと思えば簡単です。

 

大抵の人間は退屈な生き方に満足しているんだ。幸せとは満足だ

 

今の状況に満足しろということですか!?とてもそんなことはできません。

暖かい家族がいる。一緒にご飯を食べたり好きな本について語り合える友達がいる。周りから褒められる大学に通っている。お金には困らない。女だからって差別された記憶もない。手も足も自由にのびのびと動く。好きな人がいる。私のことが好きな人もいる。でも、周りから見て、私がどれだけ幸せにならなきゃいけない環境だろうと、ささやかな幸せに感謝しなきゃいけないと言われたとしても、私は幸せじゃないんです。

 

自分が一人の存在だってことがすごく怖いんです。一生、他の人には私はなれない。好きな人と隣にいてもキスしてもハグしてもセックスしても50年一緒に過ごしても相手の気持ちを知りたいと思っても肌の温度を知っていても、なれない。ずっと一人で生きていかなきゃいけない。

 

愛が欲しいんです。

 

愛などいらん。そんなものにかまけている時間はない。愛は弱さだ。俺も男だから、時々は女が欲しくなる。だが、欲望さえ満たされれば、他のことができるようになる。肉欲に勝てないのが、いまわしくてしょうがない。欲望は魂のかせだ。おれは、すべての欲望から解き放たれる日が待ち遠しい。そうすれば何にも邪魔されず絵に没頭できる。女は恋愛くらいしかできないから、ばかばかしいほど愛を大事にする。愛こそ人生だと、女は男に信じ込ませようとする。愛など人生において取るに足らん。欲望はわかる。正常で健全だ。だが、愛は病だ。女は欲望のはけ口にすぎん

 

 

.....................。

愛は大切じゃないんですか。多くの男女は愛を求めて生きていると私は思います。

 

 

大抵の男にとって、愛は日々の雑事の一つでしかない。小説の中では愛は、さも重要であるかのように誇張されるが、現実にはそうではない。小説はあくまでも作り物だ。世の中には愛こそすべてという男もいるにはいるが、そういった連中は魅力に欠け、愛に最大の関心を払う女からさえ見下される。女は色恋好きの男におだてられると楽しい気分を味わうが、実際は、つまらない男だと不満に思う。男はたまに恋に落ちた時でさえ、恋愛以外のことに興味を抱く。生活費を稼ぐため仕事に集中し、スポーツに熱中し、芸術にも夢中になる。男は大抵いろんなことに首を突っ込んでいて、そのうちの一つに集中している間は別のことに邪魔をされるとうんざりする。愛における男女の違いがここにある。女は一日中愛していられるが、男は時々しか愛せない

 

そう言われると、思い当たる節はところどころあります......。なぜか、私のことをとても好きになってくれそうな人のことは好きになれないんです。その人たちのことを好きになれれば幸せになれるのかもってたまに思います。でも、私になんかより何か他のことに夢中になっている男の方がずっと魅力的に見えるんです。

なのに、そんなこと言っている私自身は、恋人がいる時、相手のことばかりずっと考えていて、他のこともしようなんてほとんど思いつかないんです。だって「その人といる時が一番幸せだから、それでいいじゃん」って。

普通だったらめんどくさいことがすごく恋しくなるんです。

でも相手はそうじゃなくて、勉強だったりサークルだったり他の友達だったり他にも夢中になるものがあります。それが、羨ましくて悔しくて苦しい。

 

恋をすると人は夢中になりわれを忘れる。どれだけ聡明な者も、頭ではわかっていても、自分の恋がいつか終わることが信じられない。本人でさえ幻想だとわかっているものに、恋は形を与えるのだ

 

はい、本当は彼は素敵な人だけれど、ここまでして執着する必要のない人だってわかっています。彼と一緒にいるときの満たされる心は幻想だって。幻想なのに、「これは恋だ」って思うと自分の妄想から抜け出せません。「ほんとうの恋」ならどんな犠牲を払っても許されるような衝動にかられるんです。

 

感情には理性のあずかり知らぬ理屈がある

 

私の理性は、私の感情の理屈が全く分かりません。こうやって文章にして解き明かそうとして少しは分かったような気もするけど、実際改善しているかどうかもわからないんです。

だって、今でも私は前の恋人のことを三ヶ月も引きずっているし。もう好きじゃない、とは思うんです。でも恋人になるってことは、お互いが仲良くなるために努力することだと思うんです。それなのに別れた瞬間お別れなんて、そんなのできるわけがありません。

 

私は男になりたかった。悔しくて仕方ないです。男だったらきっと、私の尊敬する大好きな彼は私のことなんて相手にしてくれなかったし、良い友達になんてもちろんなれなかったでしょう。私が「女だから」という理由で、彼が仲良くしてくれたってことは分かります。だって、私って特に何も面白みもないつまらない女だと思うから。だから本当は彼と対等に仲良くなりたいけれど、媚態を使って性欲の沼に引きずり込んでいるだけなんじゃないかと、ふと、思うんです。でもどうしようもなくて、彼に離れられたら、また空っぽになってしまいそうで。

 

女は男を愛すと、魂を所有するまで満足しない。女は弱いから、相手を支配しようと必死になる。支配するまで決して満たされない。女は狭量だ。抽象的な考えには腹を立てる。理解できないからな。ものにばかり目が行き、理想に嫉妬する。男の魂は宇宙の果てをさまようが、女はその魂を家計簿の項目に入れたがる。

驚くほどの粘り強さで、おれを罠に仕掛け束縛しようとした。おれを自分のレベルに引きずり降ろそうとしたんだ。おれ自身には関心がなく、ただ、おれを自分のものにしたがった。おれのためなら喜んでなんでもしたが、おれが唯一望んだことだけはしてくれなかった。つまり、おれを放っておくことだけは

 

そういっておいて、たまに、都合のいいように私のことを呼ぶんです。その声を無視したいと思うんですが、体が勝手に喜んでしまいます。最悪です。背徳感はエロくて最高だと思いますが、行き過ぎて罪悪感となってしまうのです。

 

「そういう男にはこう言えば良い。

数カ月の間1度も女のことを考えなかったとしましょう。あなたはそういうこととは永遠におさらばできたと思い、自由の身になれたことを喜び、魂を我が物にしたと感じる。星のきらめく天上を歩いているようなすばらしい気分を味わう。そこで出し抜けに我慢できなくなる瞬間が訪れ、自分がずっとぬかるみの中を歩いていたに過ぎなかったことを知る。あなたはぬかるみの中で転げ回りたい衝動に駆られそして卑しく浅ましい性のおぞましさを体現しているような女を探す。あなたは野獣のように女に襲いかかりそして激情で何もわからなくなるまで性を貪る。

そして奇妙なことが起きる。終わったときあなたは信じがたいほど清らかな気分になっている。肉体から遊離した霊のような気分で。まるで物質に触れるように美に触れることができると感じる。そよ風や、芽吹き始めた木々や虹色にきらめく小川と交換できるような気がしてくる。まるで神にでもなったかのように

 

なるほど、「性欲に打ち勝ちたい」「その場の誘惑に流されず、強く男らしい美しい人間でありたい」と多くの男たちは思っているけれど、性欲から逃れられないのですね。ありがとうございます、どうしても誘惑したい男がいたらモームさんのお言葉を引用させていただきます。「私を抱けば神のようになれるよ」って言ってみます。

 

はあ、、、、ほんとは好きな人には女としてではなく個人として見られたいのに、どうしても汚い手段を使ってしまう時がある。そんな自分が大嫌いです。

 

あなたはまだ、人間がどれだけ矛盾に満ちた生き物なのか分かっていないのだ。誠実な人間にも偽善的な面は多くあり、上品な人間にも卑しい人は多くあり、また罪深い人間にも多くの良心がある

 

ああ、サマセット・モームさん。

好きです。また他の本も読んでみます。

 

 

 

 

 

わたしは勉強ができる


「東大女子って他大女子を見下している気がする」



恋人や元恋人の東大男子とお話ししているとこんな風にたまに言われる。ここでいう東大女子は、にごしているけれど、わたしのことでしょうね。
正直、なんてアホなんだろうと思う。だいたい、こんな流れになるのはいつも彼らの他大の彼女だったり親友の女の子の話をする時なのよ。


「その子の話をわたしの前でするの、ちょっと嫌」

っていうのをつばと一緒に飲み込んで、「かわいいよね」「文章うまいよね」とか言ってあげているの。それなのに、ちょっと「あれ、東女だっけ本女だっけ?どっちかあんまり区別つかないかも」と、耐えかねて少し皮肉を言ってしまうと、見下しているという判断になるのだ。

きっとわたしは、好きな男の好きな女が他大女子だろうと東大女子だろうと同じように嫉妬するんだ。ちょっと皮肉を言ってしまうんだ。自分でも少々ダサいと分かっているけれどどうしようもない。そんなわたしの心に広がる前提条件も忘れてしまっているの、男は。


でも、本当にわたしが他大女子のこと見下していると思う?東大女子なんて、こんなに世の中に少ないのに他の女の子に壁を作ると思う?高校の仲良い友達だって全員東大じゃあないのに、ばかにすると思う?

しないわよ。

そんな生きにくい選択肢をわたしは選ばない。そんなにわたしはばかじゃあない。
そりゃあ、わたしだって自分が東大に入れるくらい頭がいいことに少しくらいプライド持っているわよ。他の女の子たちとはちょっと違うなんて思うこともある。けれどどんな女だって、私はそこら辺の子達とはちょっと違うのよって思って生きている。だから私だけが東大ってことに少し優越感を抱いてるだけでなくて、可愛い子は可愛いことに優越感抱いてるだろうし、可愛くなくても勉強できなくても、ファッションなり付き合ってる男だったりに優越感を持って「ふんっ」ってすまして歩いているのよ。


それにわたしは、なにもそんなに勉強ができることに自信を持っているわけではない。むしろ、つくづく勉強なんかできるより美人に生まれたかったと思う。

「ああ〜、かわいい方が絶対に勉強できるより社会ではお得!」

そういって周囲の人を困らせることもしばしば。

「容姿も大切だけどそれだけじゃあないよ」

こんな言葉もある。でも、腹の底では「美人が好きだ!」って思っていても公に言ってはいけないことといいことってもんがある。「美人が好き!」ってどんなお顔の人に対しても主張するのはあんまりよろしゅうないですよ。そんな現実から目を完全に背けるのもよろしゅうない。だから、私もまだまだ足りないかもしれないけど、YouTubeでメイク動画を何百回も再生してるし服だってそんな興味ないけど友達と買いに行ったりする。そもそも、美人じゃないからこそ早々に戦略を変えて勉強を頑張った部分だってあるのだ。だから、少しくらい無いプライドを掘り起こしたっていいじゃない。


わたしもそこらへんの大量の東大生と同じ。大学に入ってから、勉強でも他の特技なりなんなりの点でも、自分のちっぽけさに絶望してプライドなんてそんなにあるもんじゃあない。
東大男子の恋人ができた時は、必ず、

「ねえ、なんでわたしと付き合ったの?やっぱり、東大には女子が圧倒的に少ないからでしょ」

と答えなんて丸わかりなのに”一応”聞いてしまう。それでやっぱり、

「そりゃあ、東大の中だと女子の方が有利だから僕があなたのこと好きになる確率が高まるのは当たり前なんじゃない?」

ってなんのためらいもなく言ったりするわけ。嘘くらいつきなさいよ。ねえ、でもわたし一年通してもう知ってるわ。東大男子の中でも、東大女子と付き合いたいって人が意外とたくさんいること。「東大女子の方がいいかも」と言う男は揃って、

「だって、自分と同じくらいの学歴の方が話が合いそうじゃん」

って言うのよ。でもわたしは一年通してさらに学んだわ。そんな理由より、もっと大きな理由は別にあることを。『美人と付き合うと男の株も上がるように、希少価値のある東大女子と付き合うと自分の価値が上がりそう』ってのがほんとうのところだとわたしは感じている。その証拠に、東大女子と付き合って別れた男はケロっと他大女子と付き合って「そんな変わらないもんだな」とか「東大女子は面倒くさい」なんて言ったりしてるのよ。


よくよく考えてみたら、もっと「わたしは勉強ができる」ってことにプライド持っていいはず。美人だとか歌が上手だとかオシャレだとか優しくて清楚だとか、そんなことと並列に「わたしは勉強ができる」ってことが、わたしが好きな男をつかまえることができた要素だって。そう思わない?
というか、東大の中で恋愛において女子の方が有利だから選ばれたってことばっかり考えていたら、どんどん自己肯定感が下がるばかりでやってられない。有利な土俵に立つことができたわたしがすごい!って開き直るしかないのよ。




どうして、素直に嫉妬をしてはいけないの。どうして、その子が可愛いことや歌が上手かったりオシャレだったり、美術だったり文学だったりそういうことに優れていることに素直に嫉妬してはいけないの。どうして、「かわいいね」とか「キラキラしてていいなあ」って言うと「ばかにしてるでしょ」って東大男子に言われなきゃいけないの。そしてどうして、私自身は受験勉強に強かったってことに素直にプライドを持ってはいけないの。
「わたしは美人だけど、あの子はブスじゃん」って声に出して誰も言わない。「わたしは頭いいけどあの子はそんな頭良くないじゃない」って面と向かってなんて、わたしも言わないよ。



きっと、私に「他大女子のこと見下してる感じがする」と言った彼は、私のことを勉強でしか優位に立つことのできない可哀想な女って哀れんでいるでしょうね。でもなんだっていうの。私は勉強で優位で彼女は他のことで優位なだけで、そういう風に見れば私と彼女は同じようなもんじゃない。



他に何か彼女が私より優れてる点といえば、そうね、あなたに好かれていることだけよ。

「失恋」とはどのくらいまで長引かせるのが適切かしら。

さくらちゃんへ


恋人がいなくなってから本気の文章を書く気が起きません。原因は分かっています。私、本を読んでたくさんいろんなことを考えて言いたいことが山のように積もり積もっています。そして、本当はそれを誰かに伝えたいんです。しかしです、伝える人がいません。
はっきり言ってこのブログの読者に伝えたいことなんてこれっぽっちもありません。最近はそういうふりをしていただけです。「みんなに何かを伝えたい!!」みたいなふりをしていただけです。本当は誰か一人でいいから、聞いてくれてさらにその人の意見を言ってくれる人に言いたいんです。だから、例えば、上野千鶴子のフェミニズムの本を読んで女性の恋愛結婚仕事性についてアウトプットしたいことや自分で閃いたことをこのブログに書こうかと一瞬は思うのですが、すぐにそんなの損だなって思ってしまいます。だって、このブログを読む人に私の大切な閃きを簡単に教えるなんて、もうやってられません。だいたい、このブログを読んでいる人は私の文章を真剣に読んだことなどないのです。ただ、「色んな考えの人がいて面白いなあ」「メンヘラ観察してる分にはウケる」とか思いながら私をタダで消費しています。そんな意識はなくとも、私にはそれが感じられます。こんなに書いてるのにフィードバックは何もないのです。ただ、さくらちゃんが聞いてくれるだけです。でもさくらちゃんは私です。どうしてあなたが私なのに私に反論をくれるでしょうか。


そもそも、昔、恋人がいた時はその人が私よりもたくさん知識を持っていて賢くて、それに対抗するために全力を出し切った結果がアレでした。出し惜しみなんてするわけがありませんでした。彼に私の考えていることを知ってもらいたいそして反応してほしいという一心でしたから。読者がたくさん増えたのはそのおまけです。あの時の文章たちは私の子供のように感じられます。全部、健気で頑張っていていい文章ばかりです。最近の文章はどうでしょう。読者はただの娯楽として消化してるだけだから、こっちとしても思い切りよくいけません。前はそれで良かったんです。恋人が真剣に読んでくれて、それだけで充分過ぎました、いくらでも頑張れました。今はもう、ただ消化されるだけです。私は耐えられそうもありません。


どうすればいいんでしょうか。そろそろ、またそういう人を見つけた方がいいかもしれないです。もう恋人なんて一年くらいはいらないと思っていました。それは、ただ疲れたからという理由だけではないです。彼以上に好きになれそうな人がそう簡単に見つかるはずもないだろうという謎の自負と、すぐに他の人と付き合うと彼に軽い女と付き合っていたというレッテルを貼り付けてしまうかもしれないという心配があるからです。でも、そんなのただの私の自意識過剰で大したことのない心配かもしれないです。前の前の恋人と別れた時ももうこれ以上好きな人は出来ないだろうと思っていたら彼がいましたし、彼はもう他の女の子を気になり出しているかもしれません。そろそろ私も顔を上げたほうがいいかしら、と思います。ただまあ、顔を上げたところで誰かいるかとはやはり思えないのですが、上げることから始めなければいけません。ずっと、彼の話ばかりしている自分がとても馬鹿らしいです。


人はどんな時に文章を書こうと思うのでしょうか。私は思います。きっと、ほとんどの場合、辛くて自分の中に貯めてはおけないものを吐き出す時が一番最初だったんじゃあないかと。私は感謝しているんです。彼が、武器のない私に言葉を与えてくれたことを。


さくらちゃんより

「周りに染まらない自分がかっこいいと思っている」もしくは「オリジナルを必死になってお探し中」の『個性教』の皆さんへ

愛しのさくらちゃんへ


お久しぶり。
今日は、最近私が、周りの人とは一味違った『染まらない自分』になるためにどのようなことをしているのか聞いて欲しくて、それで「偉いね、頑張ってね」って言って欲しくて日記を書くことにしたの。


私ね、自分のことを周りの人間とは少し違った特別な人間だと思っている人がとても苦手なの。そういう風に思っている人を見ると痛々しいと思うし、そういう人が「私、ちょっと変わってるんだよね。」って言うほどあなた変わってないよ普通の人だよ、って言いたくなっちゃうんだよね。だってさ、皆そんなこと言いながら、人と同じようなことを結局したがるし、共感という言葉と感情が大好物だし、矛盾していてダサいもん。
パパがさ、たまに「さくらはほんと変わってるよな。変人って友達によく言われない?」みたいなことをニコニコしながらからかって言ってくる。けど、私は自分のことすごい平均的で普通の人間だと思ってるから、そんな言葉を嬉しそうに言ってるパパが恥ずかしくて仕方ないの。だからいつも、「そんなことないよ、普通だよ。私が変人だったら皆変人になっちゃうじゃん、違うから。」ってすごいむすっとした顔で返事してしまう。そんなの受け流して、「そうかも〜笑」とか言っちゃえばいいのにね......。

でも私も、昔は何も個性や特技のない自分のことを嫌で嫌で仕方ないと思っていた時期があって、大学入ってからは部活に入ってみたり、海外旅行してみたり、プログラミングを少しかじってみたり、でもそれ結局皆がやってる当たり障りのない(価値のあることかどうかは置いといて一回は多くの人が考えそうな)ことなんだよね。もう、さくらちゃん、私のこと”Ms.凡人”って呼んでいいよ。私、いつの日からか、自分が普通の人間であることを開き直ることにしたんだ。
「え、さくらちゃん勉強も運動も平均よりずっと出来るし、絵も字も上手いし、ピアノも初見で弾けるし、アレスの実験でクラス内でやった迷路のタイムも全部ダントツ一位だったじゃん!全然凡人じゃないよ!」
ってどうせここで言うんでしょ。それはどうもありがとう、私もそれについてはそう思うよ。でも、そういうことじゃあないんだ。いくら勉強や運動が出来ても、絵や字が上手でも、ピアノが初見で弾けても私よりその分野で優れている人はもう数え切れないくらい、上を見ても見切れないくらいいるんだ。迷路のタイムだってクラスではダントツ一番だったかもしれないけど、きっと、私より速くゴールにたどり着ける人がいるんだ。それに、そういう長所に負けないくらい、短所だってたくさんあって、例えば、我慢ができなくて痩せられないこととか恋人にすぐ振られてしまうこととか、置き忘れが酷すぎることとか、口が軽いこととか(高校生のとき、シンガポールの修学旅行直後からマーライオンってあだ名つけられてすんごく嫌だった、今でもたまに言われる。しかも修学旅行で行った時、工事中でマーライオン見れなかったのにね!)。

とにかく、私は凡人。そして、そんな自分が嫌で『周りに染まらない自分』を目指そうとしておきながら、周りがやっていて自分がやっていないものを見ると焦りを感じてしまってた。中学生の時、周りにちらほらと彼氏ができ始めて、なんとなく自分も欲しくなったから私と同じように感じていた男子と付き合ってみたり、部活でずっと一緒にいた友達が「京大目指す!」「東工大にしようかな〜」って言うから何も目指していない自分が恥ずかしくなって「私は一応東大って第一志望には書いておいた〜」って言ったりね(いい大学目指さないのも恥ずかしかったけど、明らかにその時点ではE判定の大学を目指すのも恥ずかしかったから濁して言うっていうどうしようもなくダサい私)。
今もある。ちょっと打ち明けるのは恥ずかしいけど、さくらちゃんになら聞いてほしい。今、周りを見渡して焦っているのは、もちろん全く未来が見えない進路のこともそう。そうなんだけど、もっと側近のことで言えば、「ダイエットに成功したことがないこと」と「恋人の親に紹介されたことがない。また、自分が紹介されるような自立した女ではないこと」。どう思う?もしかしたらアホみたいって思うかもしれないけど、私的にはかなり深刻なのよ。

あ〜話が長くなっちゃう。


でもね、最近私気づいたの。私が尊敬しているような真に自分色を持つ大人あるいは染め方を知っている同年代の子たちの共通点に。
それは、
『何もないところから自分の色は見つからない』
ってこと。
自分の考えを言ってくれたり、誰かに対してきちんとした批評ができる人はすごい量の知識を吸収して、そしてそれを自分のものにしている。それは、本であったり授業だったり人との会話だったり自分の行った場所での経験だったり、色々あるけどね。
確かに、自分の部屋でぼーっとYouTubeやTwitter見たり、人と当たり障りのない表面的な会話していても、休息にはなるけれど閃きは無い(たまに感化されるけど確率が低い)。けど、本を読むと一冊だけでも自分の考えがガラッと変わったりして、その本に対する自身の中の肯定的な部分だったり批判的な部分からオリジナルが生まれていく気がするの。人に感化されて、自分の中に良いものや捨てるべきものの概念を取り込んで、私は私のセンスを身につけている。


『周りに染まらず、周りに尊敬されるために、周りに学ぶべき』


近頃、こう思う。だから、私は一旦、虹色を超えて真っ黒に染まりたい。捨てる色を選ぶ過程でセンスは生まれるから


残念なことがあるの。
本や人の書いた文章を読めば読むほど、いろんな考え方とか自分の閃きとかが出てくる。だけど、さらに本を読むと自分の閃きだと思ったことなんて他の誰かがすでに考えているんだよ。それも、これこそ私のオリジナルの考えだ!ってものが、遅くともギリシャ時代にはプラトンが思いついてたりするわけ。それを、私は少し残念だなって思う。でも、少し残念だなとも思うけど、面白いなとも思う。だって、私の考えたことプラトンが考えてたんだよ。他にも、岡本太郎とか上野千鶴子とかが私がメモってたことと同じこと言ってたりすると嬉しくなっちゃう。そういうことってよくあると思わない?これが多くの人が大好きな『共感』なんだ。

でも、多くのファンを抱える人たち、あいみょんとか上野千鶴子もそうだし岡本太郎もそうだけど、自分の色を持っている。(この人たちに色があることはさくらちゃんも『共感』してくれるよね?)多くの人にシンパシーを与え共感させながら、色を持っている。その人を惹きつける色を、彼らが何も無いところから染めることのできた色には見えない。多くをインプットしてアウトプットして、その繰り返しでああいう風になったんだと思う。
だから、私もそれを真似してみようと思うんだ。

人に感化されて真似するところから私のオリジナルは作られていく気がするから




聞いてくれてありがとう、頑張るね。
おやすみなさい。    さくらちゃんより

【教祖のメモ】大きな宗教か小さな宗教

かわいそう 本読むだけで 変わるのに

 


「好きなのに」 そう言うわたし 好きなのに

 


お腹を壊すと分かって食べるアイス

 


かっこいいのは、「元彼達を見返したい」と言って結婚した女

かっこわるいのは、「将来は人を幸せにできる人間になりたい」と語って結婚した女

 

 

 

開き直るのを恥じた時、あなたは大人

 


私にも夢あるんだよ。しかも、1人で頑張らなきゃいけないのも、1人だけじゃダメなのも気付いてるんだよ、わたし頭いいから。

 


平均なことをしたがるのに、自分だけは皆と少し違うって心の底では思ってる私、それでいいよ、平凡であることと皆と少し違った特別な私がいることはまた別だから。

 

 

 

生理でイライラしている時に「生理なの?大変だね」と言われると余計イライラする。これは、機嫌が悪い時に「機嫌悪いの?大変だね」って言われることと同じだから。ホルモンとか血糖値とかの問題があるにしても、そんな時でもイライラの原因はどこかにあるから、ちゃんと聞いてほしい。

それで、ほっとけばいいやと思わないでほしい。

 

 

大きな宗教か小さな宗教か、名前の付いている宗教か名前の無い宗教か、いくつもの宗教かたった1つの宗教か、みんな属している。

みんななにかを信じている。

 

6/2メモ

 

 

 

 

 

 

 

 

マッチョが恋しい

 

高校の同期にね、マッチョという男子がいたの。

 


私は中高ではバスケ部だったから、毎日汗を流して足やお尻についた筋肉はカチカチだった。それでも、高三の五月の末には引退して、受験勉強の日々が待っていて、そうするとだんだん筋肉は落ちていき、前とはお尻の質がだいぶ柔らかくなったおかげで座り心地がフカフカになった気がする。座り心地がフカフカになったことはいいことかもしれないが、前よりも脂肪がつき、私たち元運動部女子が言いがちなのはこれだ。

「筋肉が脂肪に変わっちゃった〜、やばい〜〜」

 


しかし彼は私に言い放った。

 


「筋肉は脂肪に変わらない。それは筋肉が落ちて、さらに脂肪がついたんだよ。」

 


この言葉は今でもよく思い出す。だって、すごい傷ついたから。私、筋肉落ちたうえに脂肪がついたなんて。それなのに筋肉が脂肪に変わっただなんてアホなこと言って痛烈な指摘を食らった。当たり前じゃない、たんぱく質と脂質が違う物質だなんてこと、勝手に体の中で変換したりしないことバカでもわかるわ。理系の私が文系の彼に指摘されるなんて......。

 


彼は「マッチョ」だった。だから本名で呼ばれることもあればマッチョと呼ばれれることもあって、ここではマッチョと呼ぶことにする。

 


私、マッチョが恋しい。それは彼が、私のダイエットに付き合ってくれて一時期送りつけていた私の食事全部の写真や運動の仕方にアドバイスくれたりしたこととか(結局痩せなかったんだけど)、失恋してズルズルに引きずっていた時に話聞いてくれて「そいつの写真全部ここで消せ」って言って消す決意を持たせてくれたりだとか(結局引きずりすぎていたから写真はその後すぐに復元しちゃったんだけど)、体育祭の練習でクラスの女子20人に押しつぶされて足の骨3本折ったせいで高校の最後の夏休みを松葉杖で過ごすことになっちゃって、クラスの女子とは一言も喋りたくないくらいに恨んでいたからマッチョが駅から学校まで私の荷物を持ってくれたこととか(結局学校着いたらクラスの女子とも喋っちゃたんだけど)。まあそういうのも色々あるんだけど、

一番は勉強する時に隣にいてくれたことが恋しい。

 

 

 

私とマッチョは学校の近くの同じ塾に通っていた。そこは基本、自習型勉強だったから広い自習室には仕切られてた机が並んでいた。私とマッチョはだいたいいつも、空いていたら隣同士に座っていた。私が左で、マッチョが右。友達が隣に座っていたら勉強しにくいって思うかもしれない。私も最初はそう思っていた。だから同じ部活の子たちとはわざわざ離れたところに座っていたんだけど、彼だったら隣に座っていても勉強できた。むしろ、彼がいた方が若干やる気が出た気もする。

 


勉強する時に隣に人がいてくれることすごい大切なんだなって今ならわかる。

特に示し合わせて隣に座っていたわけではないけど、休日もマッチョ来てるかなあという感覚で塾に向かったり、キリが良かったら彼がお昼ご飯行くタイミングで私も行こうかなあと考えたり(喋りすぎるからよくなかったけど)。

彼が隣に座って勉強していることは、私の受験勉強のスタンダードになっていた。

 


思えば今まで、一人で勉強したことなかった気がする。いつも周りには一緒に勉強する誰かがいて、なんだかんだ流れで勉強していた。

今は何に流されて勉強すればいいのだろう。

 

 

 

 

 

 

「人は孤独を癒すために恋愛するのではなく、恋愛するからこそ他人にどうしても委ねることのできない孤独を、心から味わうのです。」

これが上野千鶴子の言葉で、

「恋愛っていうのはね必ず片思いなのね。」

これが岡本敏子の言葉。

私は、恋愛することで自分の中のどうしても言葉では他人に伝わりきらない気持ちとか、どんなに好きでも分かり合えない部分があることを学んだ気がする。だから、人間はみんな孤独だって言いがちで、寂しくて寂しくてそれに対抗しようとして一人でずっと部屋にこもって耐えることが最近は私の中の戦いみたいになってしまっている。

本当は、私の文章とか話にシンパシーを感じて好きって言ってくれる人がいたら飛び跳ねるくらい嬉しいのに、ありがとうと言うのが正しいのかどうか分からなくてそう素直に言うこともためらってしまう。本当は、自分の誕生日を祝って欲しいけどSNSで自分から言うのは恥ずかしいし他の人の誕生日を盛大に祝うとお返ししなきゃ!とプレッシャーを与えてしまうかもしれないと思って人の誕生日も思い切り祝ってあげることもできない。別れた恋人とはせっかく、あれだけ仲良くしようと二人で努力した日々を重ねたのだから、別れても仲良くしたいと思うけど、いざ「友達になりたい」って言われると「なにそれ、そんなの無理に決まってるじゃない」って思って全部ブロックしてしまう。

 

自分が他人に何かを求めているのは確実なんだけど、それが何かが分からない。

ただただ寂しいという感情だけが渦巻いて、わけもなく泣いて、わけもなく、なんとなく、生きている。

 

こうやって言葉にすることは私の中で大切なことだけど、言葉にするだけじゃダメで生活の中でも何かを残したいことを私は感じている。

だからそのために勉強をしたいんだけど、誰も隣にいない。

 

結局1人だっていう人がいる。そんなこともあるかもしれないし、そんなこともないかもしれない。

 

 

マッチョが隣で勉強してくれればなあ。

それで、「今日顔丸くない?」とか「昨日のブログ名作だったよ、彼女に見せたら泣いてたわ。」とか毎日言ってくれれば私は勉強もっと捗る気がする。

 

 

 

 

別れた恋人の誕生日のために取っておいたホテルで、一人焼肉しながら書く日記。

f:id:mi_sakura:20190528173750j:plain誰よりも大好きなさくらちゃんへ



私には親友がいません。心を許せる相手がいません。

さくらちゃんには親友っていますか。
私は自分に友達はいるけれど親友なんていないと思います。この世の誰とも心が通じ合ってる気がしません。それは今まで付き合ってきた恋人も家族も部活でほとんど同じ時間を過ごしていた友達誰に対してもそう思います。だって、今こんなに寂しくて誰かの胸で泣きたい気分で話したいことも山ほどあるのに、電話をしたりメッセージを送る相手がいません。だから、今は自分と友達になるんです。私だけが私の日記の真の意味を汲み取ってくれるし、私だけが私に本当の気持ちを伝えられます。

だから、私の気持ちを聞いてください。


私、もっと自分が強いと思っていました。別れてしまった恋人の誕生日に泊まるために予約していた部屋に一人で泊まって楽しめると思っていました。昨日今日でお母さんがとても不機嫌で、午前中、家で寝っ転がって本を読んでいたら朝の洗い物だって私がしたのに「洗濯してくれない?」なんて、自分は仕事もないくせに図々しいことを言ってきて私が断ったら、「ほんとクズだね。早く自分がクズなことに気づいた方がいいよ。」と言われました。相手していられるわけがありません。だから、家出できる場所があるなんてラッキーくらいに思っていました。
でも今、寂しくて死にそうです。寂しさに負けて、あんな理不尽な母がいる家に帰りたいとすら思えますし、別れた恋人かその前の前の恋人を呼ぼうか考えたほどです。きっと彼らは呼んだら喜んで飛んできてくれるでしょうけれど、そんなことしても寂しさが一層に増すだけなのはここ一年で痛いほどよくわかっているのです。なんて彼らは私のことが好きじゃあないんだ、と思います。もう少し、私の気持ちを考えてくれてもいいのではないかと思います。好きでもないのに、寝るのはオーケーだなんて私を傷つけることはわかっているでしょう。それでもそういうことをしてきます。いっそ、寝るのも嫌なくらい嫌いでいてくれた方が私としては穏やかな気持ちで過ごせるのに。


私は本当に前の恋人たちへの気持ちが冷めてしまいました。何が、私を冷めさせた要因だと思いますか。それは、彼らに余裕がないのが垣間見えた瞬間です。私は自分より余裕があって尊敬できて、よくあるJ-popの歌詞のようなことなんて言わないような色気のある男が好きです。私が好きになった人はそういう男だと思っていました。でもずっとそんな風でいられる人なんてなかなかいないのかもしれないです。

数日前の文化祭の日、私がサークルで出しているお店で売り子をしていたら買いにやって来てくれました。でも、彼は可愛い女の子と二人でわざわざ私に見せつけるようにやってきました。なんて、ダサいことをするんでしょう、と私は思いました。少しでも気が使える男だったら、一人で堂々とやってくるかそれとももう私の目の前に顔を出さないでしょう。
今日だって、私が寂しくしているとわかっているだろうに、一年前付き合っていた人がわざわざ「寂しいなら行ってあげようか。でも最近彼女とうまくいっているからな、今日もラブラブだったし。」という趣旨の内容を送ってきました。わざわざそんなことを言うなんて、よっぽど余裕がないんでしょうと逆に私は冷めてしまって、彼のその行ってあげようかという誘惑に打ち勝つことができました。そのメッセージがくるまでは本当に寂しくて誰でもいいから来て欲しいとすら思っていたのに。

もう、私は前と違います。彼らは私よりも強くてかっこよくて超えられない存在だと思っていました。でも今は私は彼らを超えた気がします。明確な根拠なんてありません。ただ、なんだか彼らに心惹かれたりしなくなっただけですが。
さくらちゃんならわかってくれるでしょう、この気持ち。



私は、夢見がちだったのかもしれません。それは恋愛、そして恋人という存在に対してです。私の足りない部分や欲しい愛を全て補ってくれる存在だと意識しなくとも心の奥深くでは感じていたのでしょう。だからこそ、自分がなりたいような尊敬できる人を選んでいました。彼らと付き合えば自分の一部になるような気がしていました。
彼らも私のことが多少なりとは好きだったのでしょう。頑張ってくれました。自尊心の少ない私のことを優しく叱ってくれ、たくさん褒めてくれました。その度に、幸せな気持ちになりました。それは当然です、だって私が欲しかったのはそういうものですから、そういう存在ですから。なんて幸せだったのでしょう。
でも、彼らも私と同じ人間だったのです。「人にしてもらいたいことを人にしてあげ、されたくないことはするな」という言葉があります。あれは本当は嘘です。人それぞれされたいことやされたくないことは違います。自分の主観で他人のことなど判断できないのです。しかしです、みんな人間だということは同じなのです。それを忘れていたのは私でした。彼らが私のことを満たしてくれる「恋人」としてしか見ることができませんでした。私と同じだとは思いませんでした。




もちろん、好きでした。全身であなたのことが好きだと表そうと努力していたあの日々を遠い目で覚えているけれど、好きな気持ちがすっかりなくなって本当に好きだったんだっけ?って思うくらいになってしまって、どれが自分かわからなくなって、記憶を疑い始めて、自分のことを信じられなくなってしまいました。
どっちが本当の自分とかそういうのはなくて、あの時の私も私だって思いたいんですけど、あまりにも気持ちに差がありすぎてとんでもない喪失感に襲われています。まるであの期間の私を失ったように。
だからね、あの人は死んだんです。
私も一緒に死にました。
恋をしたらアホウになるって思うでしょう?でも恋をしている期間はバカなんかじゃなくてただ今とは違う価値観を持っていただけなんじゃないかと思います。今の私の価値観だと恋をしていた時の私はアホウだけれども、その時の私にとって一番やるべきことは全力で恋愛することでしたし、何が一番幸せかって彼と一緒にいることだったと思いますから。だから、恋をしていた自分のことをバカにしないであげようかなって思います。
でもやっぱり私の今の価値観だと恋をしている自分は情緒不安定すぎで、仕事も勉強も何も手についていなくてどうしようもないバカだなと思います。だからもう二度と同じことは繰り返したくないです。


さくらちゃんの周りにも恋をしてる人のこと、バカにしてる人いるでしょう。あれって嫉妬した負け犬的発言に一概に決めつけられがちだけれども、実際にバカにすべき点が多いと思いません?恋人がいる人は恋人の存在によって精神が安定したり快楽を得られたりすることがあるのは認めるけれども、どう考えてもそこを通り越して依存して情緒不安定になって自分の時間も取られて自滅している人がたくさんいます。羞恥心を忘れて恋人に自分の裸を隅々まで見せて、それ以上に自分の弱い部分もさらけ出して、裸以上に恥ずかしい自分の中身をさらけ出してしまって、その恋が終わった後はなんて恥ずかしかったんだろうと赤面するような。
今の私はそんな恥ずかしいことはしたくないです。私自分のこと大したことのない人間だと思ってて、でも、大したことのある人間になりたくて、だから、自分で大したことあるって思えるようになるまで好きな人とは付き合えないです。




実を言うと、今の私は「避妊しながらのセックスがなんて非生産的なんでしょう」と、余裕の笑みを浮かべることだってできます......。


そうそう、セックスについて考えるとたまに思い出すことがあります。今日も思い出しました。それは、中三の時に亡くなった同級生の男の子のことです。彼とは中一の時同じクラスで席も出席番号が隣だったのでそこそこ話しました。でも中一の時の男子ってそれはそれはお猿さんで、共学だった女子のみなさんはわかると思いますけど、彼もクラスの中で人一倍下ネタばっかり言ってました。それも、面白い下ネタなんかじゃあなくて、ただ下ネタワードを連発するとか、ロビンソンの歌詞を「誰も触れない 二人だけのク○ニ」とか(これを大声で歌ってるのがあまりにも酷すぎてとてもよく覚えています)。特に「ああ〜セックスしたい〜」とか周りのお猿さんとつるんでずっと言っていました。
でも、きっと、彼は死ぬ前にセックスできなかったでしょう。あんなにセックスしたがってずっと下ネタばかり言っていたのに、彼はできずに死んでしまいました。そのことが当時の私の中では怖くて仕方ありませんでした。実は誰か彼にさせてあげていたらなあと思いますが、きっと誰もさせてあげていないでしょう。

しかし、どうでしょう、実際は私の方が不憫かもしれません。遠足の当日よりもその準備をする前の日の方がワクワクするように、レストランで満腹になる前よりもメニューを見て選ぶ時の方が幸せなように、セックスを実際にしてしまうよりもする前の無限の広がりを感じている時の方が楽しかった気がします。
彼がその楽しい、美味しい蜜の部分だけを吸い取って死んでいったのは幸せなことなのかもしれません。



私は、自分の行動に何でもかんでも理由をつけて、いつでももっともらしくしようと頑張っています。カッコつけながらずっと過ごしています。かっこつけるのはたまに虚しくなってしまうときもあるけれど、そうやって自分の過ごした生活をどれだけ上手にかっこつけられるかが勝負だと今は信じています。だから、今の時点で生きていて最高で、遠足も行けて、満腹に食べられて、セックスがどんなものなのかも知ることができて、そして恋人と別れた自分がここにいて、良かったと、そう思います。

だってそうでしょう?
私はどんな時でもかっこよくいたいです。夜の寂寞の中で1人苦悩し毎日にけじめをつけている私はかっこいいでしょう?


言いたいことを何の脈絡もなく連ねただけだけどさくらちゃんが聞いてくれてかなり落ち着きました。ありがとう。


それでは、また明日。




誕生日おめでとう。
私はあなたが生まれてきてくれて良かったと思います。楽しかったですから。




さくらちゃんより

時計の針がうるさくて眠れない。

誰かに承認されたとしても、何も私はすごくならないし強くならない。それでも私の承認欲求は止まらない。

誰かに愛されたくて、でも世界の70億人は私のことなど知らなくてもちろん愛してもくれない。

愛したい人が見つかってもその人は私を満足させてはくれないし、愛してくれる人が見つかっても私は上手く愛し返せなくて泣きたくなる。

1人に愛されても満足できない。私が愛を分け与えなくとも誰かこっちをみて欲しい。

人に認められることがどうしてこんなにも大事なの。人に認められなくとも自分の大事なものはある。

でもそれも認めて欲しい。自分の大事なものを他の人にも認めて欲しい。

 

愛して欲しい、助けて欲しい。

 

 

時計の針がうるさくて眠れない。

 

「あなたの白い腕だけが わたしのすべての地平線」を描きたい。

サークルの仕事やゼミの課題に追われている恋人を見ると、アホなんじゃあないかと思う。
「今が一番忙しい時期だから」そう言って大変そうだ。でも、1ヶ月ごとに「今が一番忙しい時期だから」と言って会えない時期が来てしまう。
仕方ない、仕方ないんだよって私は思う。彼が忙しいことが仕方ないとは思わない。だって、絶対、サークルの仕事やゼミの課題をやることよりも私と一緒にいた方が彼にとって楽しいし幸せだから。仕方ないのは彼がそれでも、私とずっといることより仕事や課題をとるという考え方というか体制に育ってしまって、それが私とは若干合わないってこと。つまり、忙しいのが仕方ないんじゃなくて、忙しくしていないといられない彼と、忙しくしてなくても大丈夫な私が付き合ってしまったことが、仕方ない。


「これが終わったらひと段落する。」きっと、そうやって多くの人は何回もそれを繰り返して、ずっと忙しい日々を送ってる。そうやってたくさんの何かを生み出しているんでしょう?
私には生み出せない。生み出したいけど生み出せない。


ブログの記事を1つ書くのにだって、暇な12時間が必要。だから大学が始まると全く書けなくなってしまった。
もちろん、12時間かけて書いているわけではないんだけど、12時間の暇な時間にぼーっと何かを考えたり本を読んでみたりして、やっと、色々考えたことをまとめて、2時間かけて書いている。どっかの誰かさんみたいにさらっと1時間で書いたりできない。こうやって「どっかの誰かさんみたいに」という言葉で「どっかの誰かさん」に私はつまり嫉妬をしているわけだけど、私に嫉妬された人はきっと嫉妬されても痛くも痒くもないんでしょう。それでも嫉妬する。


それでね、誤解しないで欲しいのは、私は恋人に対してアホって言った。けど、ちゃんと恋人は自身のことをアホだと自覚していて、それでも忙しくしているってことは本当はアホじゃない。忙しい方が良い、と結局のところ自分で考えてるからなんだと思う。それを私には否定できないし、尊重してあげたいし、応援してあげたい。だから、この文章を彼の忙しい時期に読ませて集中を削ぎたくない。
けどね、私はやっぱり自分が好き。だから、彼のために書いていると言いつつも本当は、彼のために何かをしている自分に満足している。彼を愛している自分に満足している。そして、彼が愛し返してくれることでさらにわたしは満たされる。
自分を犠牲にしてまで人を愛したくない。そうやって生きていこうと思う。


例えば、誰かのことを好きだからと言って妥協してその人の浮気相手になって嫉妬に苦しんだり、好きだからと言って暴力や貧困に耐えたり、好きだからと言って自分の仕事を辞めたり、好きだからと言って欲しくもない彼の子供を産んだり、そういうことはしたくない。
自分のために、人を愛したいし人に愛されたい。




不思議なんですよ。自分や家族のためにはご飯を作ろうという気は起きない。コンビニに食べ物を買いに行くのにも体が重い。だけど、彼のためにだったら、ちょっと遠いスーパーまで軽々いけちゃうし料理する気が湧いてくる。

ほんと不思議。暇な日に一人で近くカフェに行ってゆっくり本でも読もうかなと思っても腰が重い。だけど、忙しくて疲れきった日に彼に会いたいという気持ちだけで夜遅くに1分顔を合わせるためだけに電車に乗って会いに行く。

自己中なんですよ、きっと私は。でも彼のためならそんなことができるっておかしいでしょう。だから、私が出した結論は「やっぱり私は自己中」ってこと。
彼のためにと言いながらやっぱりそれは自分のためで、全力で、彼にお昼ご飯を作ってあげたり、文章をあげたり、お土産を買ったり、誕生日をお祝いしたり、ぜんぶ自分のためにしているんだなと思う。
そこまでできるのは、ちゃんとその気持ちを彼が受け取ってくれるから。全部受け止めきれなくても、七割くらいは分かってくれる。だから、安心して全力になれるの。





本音を言うと、彼に会えない時間は寂しいのよ。何度も、会えなくて本当にごめんと謝ってくれて、そんな謝んなくていいのにと思うけれども、謝ってもあまり意味のないことなんだろうな。
寂しくて、何度も浮気しようとしてしまうけれど、でもやっぱり浮気して傷つくのは自分だって知ってるからできない。
大人になればなるほど、いや大人というにはおこがましいけれども、時間が過ぎて色々学んでいくほどに自由に動けなくなって、その分胸が飛び跳ねる感覚、最高なアホになることからも、逆に人を傷つけて自分を傷つけて取り返しのつかないことになってしまう事柄からも遠ざかっていく。
いいことなのかな、これが大人になるってことなのかな。きっとそうだよね。


自分は、誰かからその人の持っている愛を全て奪い取りたい。なのに、自分は自分の愛を分散させて何人かにあげてしまうのはずるいと思う。
愛はかたまっていなければいけない、かたまっていない愛は愛じゃなくて、バラバラになってしまった愛の破片だと思う。
愛がバラバラな時って自分もバラバラで、自分がバラバラだとやっぱり生きるのもうまくいかなくてつらいから。

新しく恋をした教祖はブログに戻って参りました。

私、また新しく恋したみたいです。なんで恋したか分かるかというと、すごい胸がドキドキするんです。嘘じゃないです。涙が出てきそうなんです。こんな気持ちきっと相手に言っても、「ああまたいつもの好き好きタイムね。」っと言って流されてしまうに決まっているからどうしていいかわからなくて、ブログに戻ってきてしまったんです。



どうしてこんなに好きになったんでしょう。最近毎日会っています。同じ大学で、授業の数も少し減ったから毎日のようにだいたい会えます。うそ、今週会っていない日ないかも。やっぱり毎日会っていたらどんどん好きになってしまうばかりなんですかね。


この前の日曜日は二人で小旅行に行きました。小旅行と言っても土曜の夜、彼のバイトが終わった後に川越に行って駅から少し離れたところにあるラブホに泊まって、次の日、川越で少し食べ歩きして帰っただけなんですけどね。最高、、、でした。私、ラブホテル好きなんですよね。彼は、ラブホなんて色気がないから好きじゃないとか言いますけど、色気とかではなくてキラキラしていて非日常な感じがとてもワクワクします。ディズニーランドみたいなものです。田舎のラブホ街、初めて行きましたけど、すっごい綺麗なんです。駅から歩いて30分くらいのところにあったんですけど、夜遅かったので部屋がなくなっちゃうんじゃないかと思って全力で走って向かったんですよ。途中の道、真っ暗で、真っ暗な中二人で走ってバカみたいだと思っていたら、角を曲がった瞬間いきなり、光がそこだけ集まった場所が川を越えた向こうにあったんです。あれは感動しました。あ、あった、って。まるで、森の中から妖精たちの住処を見つけたような感じがしました。私なんてずっと東京に住んでいるのにディズニーに4年間行っていないので、4年ぶりのディズニーランドだ!みたいな感覚でした。いや、今度本物に行って確かめてみましょう。


水曜日は彼にお弁当を作りました。私は午前中授業がなかったので、午前中授業のある彼を見送るために学校に一度行こうと思ったんですけど、彼が忘れ物をして遅刻したせいで会えなくて無駄足に終わりプンプンしながら家に戻りました。なんだか行き場のない思いを抱えてしまったので、サラダチキンでも作って持っていってあげようかと思いました。前に作って食べさせた時に、すごい美味しいと喜んでくれたのでその日もきっと喜んでくれると思いました。あとは、シャープの全自動調理器ホットクックに具材を入れて出来上がったコーンスープを持っていきました。案の定、「売っているサラダチキンより格段に美味しいね。」と言ってくれました。けれどコーンスープに関しては、「シャープ、料理うまいな。」と言われました。いくらホットクックがすごいからと言って食材を切ったり入れたのは私だし、ホットクックを45000円で買ったのも私です。私が全部作ったも同然ですよね。少しイラっとしましたが、美味しいと言ってくれたので良かったです。そのあとは、下北の純喫茶に二人で行ってガトーショコラとカフェオレを飲み、大学に戻って一緒に授業を受けて、一緒に帰りました。


昨日は、夜会いました。食べ過ぎたから走ろうと思い、走る気満々の服装で家を出たのですが、彼が私の最寄りで降りてくれることになったので結局500mしか走れなかったんです。二人で、テキトーに見つけた公園のブランコを漕ぎながら話しました。昨日の彼の話は最高すぎました。ちょっと最高すぎてここには書けませんが、「これで好きなの?それは変態だよ。」と言われました。


今日は、一緒に授業の予習をしました。本当はイチャイチャして「二人でいたら結局勉強なんてできないね〜。」みたいな感じになる予定でしたが、みっちり勉強しました。彼はとても頭がいいので、というか頭がいい人を私は好きになるので当たり前なのですが、本の読み方を教えてもらいました。もう、国語の授業で、彼が先生、私が生徒という形になってしまいました。国語の授業を受けるのなんて、東進の林修先生のライブ授業ぶりでした。ただ読むだけではダメで、構造をつかむことの大切さや、対比の使い方、説明の仕方、いろいろ教えてもらいました。ぐうの音も出ません。
もうどうしようもなくて「結婚しよう。」と言いました。そしたら彼も「結婚しよう。」と言いました。その時の彼の顔を思い出すだけで私はにやけが止まりません。もう、好きな顔です。今日の彼はかっこよかったです。授業中や校内にいる時、友達みたいに楽しく話しているんですけど心の中ではもっとくっつきたいと思ってしまうんですね。異常ですかね。片時も我慢できないなんて。




毎日忙しくて、毎日大変で、毎日楽しいです。ちなみに、新しく恋したのはまた同じ人です。

以上、行き場のない思いを持て余した教祖から、久しぶりの報告でした。





惚気てすみませんなんて一ミリも思っていないのでどうぞよろしく。

三月は別れの季節。

このブログ、一旦やめようと思います。

理由は単純で、読んでほしい人がいなくなってしまったからです。

本当の私は、文章を書くのがとても苦手で嫌いでした。でも、書きたいことがもともとたくさんあったのと、読んでほしかった人が「書きなよ。」というのでここに書いていました。

たった一人に読んで欲しくて書き始めたブログだけれど、1ヶ月の間に、私のブログを定期購読してくれる人が100以上現れました。実生活では全く関わりのない人達が、私の文章を読んでいる。一人のために書いていると言いながらも、内心、うれしくてたまらなかったです。


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もう、何かを書いても、彼との連絡手段がないので感想も聞けないですし、書く気もあまりありません。

でも実は、そんなに落ち込んでいないです。
恋愛をすると、自分のことをあまり考えられなくなってしまいます。なので、ちょうどよかったと思っています。

自分の将来について考えることと、自分磨きをこれからします。

このブログをこのまま続けてしまうと、他の人にモテないですし。

また自分が書きたいことが、もし、あったら書こうと思います。

ちなみに、私がこのブログを始めて一番気に入っていて、彼も一番好きだと言ってくれた記事はこれです。自分では力作だと思っています。文章を書いてよかったです。
彼は、私に文字を与えてくれました。


mi-sakura.hatenablog.com


この三ヶ月、本当に本当にめっちゃくちゃ楽しかったです。
毎日、彼のことを考えて、幸せでした。

重いからフラれるんですけどね。

夜中に富士山のこと考えていたら、人生についても考えてた。

富士山、富士山ってとても大きい。富士山はすごい。
でも、私、もっとすごいこと思いついた。富士山を壊しちゃうってのはどう?富士山をそのままにしておいて眺めておくよりも、富士山の頂上から、壊していくのはどうかな。ソフトクリームの先っぽをパクッと口に含むように。きっと、すごい快感だよ。だって、ソフトクリームでさえ、一番先を食べるときは最高に幸せだもん。
でも、どうやってやるのかな。私にはわからないや。だから、富士山を壊してしまうような人はすごいと思う。
私、こうゆうことわざを聞いたことがあるの。「一人を殺せば殺人者だが、百人を殺せば英雄である。」それと同じだよ。ただの、そこらへんにある、仏像とかを壊したり花壇を荒らしたりする人は悪いやつだけど、富士山を壊す人は英雄になれる。こんなこと思いつく人いないしね。私、すごいこと思いついちゃったかも。

午前0時。

夜は不思議。昼間だったら考えないような、突拍子もない馬鹿なことを考えしまう。
まるで小学生みたい。だけど、小学生だった自分は絶対にこんなことを考えないと思う。だから、やっぱり私はちゃんと19年以上は人生川に流されることに成功している。あたりはまだ、大きな岩があり急な勾配であるから察するに、ここはまだ上流で、ザーッと勢いよく流されている。いつか、中流下流にたどり着いたら、もっとゆっくりとした流れになってきて、それはそれで楽で居心地がいいかもしれないし、大きな岩がなくて退屈かもしれない。
でも、流されないように上流の方でどこかに必死に掴まっていても、体力が尽きてすぐに手を離し、最悪の場合、疲れきって流されるのに失敗し、途中で溺死してしまうかもしれない。
死体として、口が開いたブッサイクな顔で流されていくのは屈辱だから、私は川の流れにあらがわずに綺麗に流されよう。




小学生の頃は、19歳はずっとずっと大人だと思っていた。
制服を着た中学生は年上のお姉さん。
体重が50キロあるのはデブ。
男女が裸で添い寝することがセックスだと思ってそれを想像するだけで顔を赤らめ、路上で熱いキスするカップルは私とは一線を画した大人の階段を登りきった人。
大学生の男はおじさんになる手前の人で、東大っていうのは特別に頭がいい人しか入れないところ。
親に連絡せずに友達と遊びに行くのは成人してからで、ミスドで働くお姉さんはミスドの人。

実際は、
今の私から見る中学生は折れそうなくらい華奢。
女子の平均体重は52キロ。
セックスは添い寝するだけじゃあないしほとんどの人にとって日常にもなりうる。
路上でキスをするのは、大人とか関係なくしたくなったらしてしまうもので、私の同級生は全然おじさんじゃあない。
東大は流されていたらいつの間にかなぜか入っていた。
親に内緒で恋人と泊まりに行く。
ミスドで働くお姉さんは、ミスドの人なんかじゃあなくて生活のほんの一部だけミスドの店員としてバイトをしている人。



大人の階段は一段一段登るごとに、何かができるようになったわけでもなかったな。むしろ、私は時間が経つごとに、下に下に流されていって、流されていくうちに、いつの間にか経験していたということになっていたり理解したことになっていることが多くて拍子抜けしているな。

今文章を書いているパソコンの仕組みも、今住んでいる家がどのように作られたのかも、ips細胞がなにものなのかも、世の中で行われていることがどのようになされているのかさっぱり理解できない。
さっぱりわからないことに、時々大きな不安に駆られる。この先、私はそれらを理解している人たちの足元にも及ばない気がする。
でも、小学生の時に想像していた19歳と比べて、今の私が拍子抜けだったように、それらのことも知ろうとすれば”もしかしたら”案外簡単に理解できたりするのかもしれない。

そろそろ専門を決めなければいけない。専門を決めて、他の一般人にはさっぱりわからないけど私にはわかるということを作りたいなあ。
進振り不安だなあ。

世界で最も可哀想な、惚気。

「彼が好きすぎてつらい。」
「会えなくて寂しい。」
こう嘆いたことはありますか。


私は惚気が好きではありません。今までだって惚気を垂れ流したことは一度もありません。いや、惚気まくっているだろうと思った方もいるでしょう。違います。私が今まで話したり書いたりしてきた、一見、惚気に聞こえるものは全て「自己憐憫」なのです。
惚気というのは、いい気になって自分の夫や恋人について話すことでしょう。私はいい気になってなどいません。真反対なのです。


突然ですが、私が本当に好きな人とは誰でしょう。



ある日、恋人と映画に行きました。映画は面白いものでした。私は今まで、とてもつまらないなと思った映画に映画館で出会ったことはありませんでした。でも、終わった直後に、感想を上手に言うことは難しいことでした。私は、人よりもずっとずっと一人で考え事をしていますが、考えをまとめるスピードは遅いのです。


「死にたくないと思った。」


とりあえず私に言える感想はこれだけでした。一言でまとめるとこうなります。
面白い映画を見ました。また、二人で映画を見にきたいと思いました。でも別に映画ではなくても二人で行ければどこでもいいと思いました。死ぬまで一緒にいれたらいいと思いました。でも、死んだら二人で一緒に映画を見ることはできないんだと思いました。
そしたら、なんだか、切なくなって笑えてきました。


私には、今まで、出会った男の人に対して、一緒にいると死にたくないと感じてしまう人が二人いました。友達と一緒にいても死にたくないなと思いませんし、他に好きだと思ったことのある男の人に対しても、一緒にいるからといって「死にたくないな。」という文字が頭に浮かぶことはありませんでした。


その人は言いました。

「死にたくないと思うのは、相手に対して永遠を考えるからじゃないかな。永遠が見えると死が見えるからね。友達が自分が何かをするための手段なのに比べて、恋人は恋人自体が目的のように思える。だから、恋人とはできればずっといっしょにいたいと感じるし、始まりと終わりがあるんじゃない?」

その人は私の好きな人であり、実際に私の目的でもありました。



ある日、ある心無い人は言いました。「1人と付き合う期間が短くない?」と。

長く付き合うために、私は恋人と付き合っているわけではありません。でも、長く付き合っているカップルを羨ましいと思います。好きな人と長い時間を共有できているとしたら、それはとても素敵なことのように思えるからです。
私だってできれば、恋人ともっと昔に出会って同じ時間を共有できていたらとか、この先も終わらなければいいと思うんです。

でも、どちらかが好きでなくなったり、一緒にいたくないと感じてしまったら仕方がない。冷めた上で、ただ漠然と付き合いを続けていられるたちではありません。

人の考えはわかりません。私は衝撃を受けたことが何回かあります。今自分のことがとても好きそうに見える恋人も、惰性で付き合いたくないからという理由で私のことを3ヶ月後に一回振ろうという計画を企てていることを知ってしまいました。彼のスマホのカレンダーに書いてありました。「(私と)付き合いを続けるか考える」と。(もちろん、勝手にみたわけではないですよ。)

たとえ、付き合う期間が短かったとしても、本当に好きになったと言える人はいます。付き合いは短くても、周りのどんなに長く付き合っているカップルより、私は確かに、永遠を意識した人がいました。



私の惚気のようなものは、永遠を見据えて自分を可哀想だと哀れんでいる一種の自己陶酔です。ただ、幸せを噛み締めているわけではありません。
それに加えて、先のことばかり考えて、今の幸せを純粋に楽しめない私のことも私は哀れみ、そして同情します。あらゆる人からの同情を受け付けたくない私も、自分が自分に同情することだけは許すのです。




永遠を考えた人を簡単に忘れることはできません。
クスリに手を出した依存症の人たちのように、病状が回復した今もなお、私もその人のことは忘れません。彼が私に触れるとき気に染む快楽をもたらすとともに、彼の手が離れたとき心はどうしようもなく疼くのです。

本当は、私が彼のクスリになりたかった。