さくらちゃん教

誰かの言葉に魅せられて離れられない時ってありますか。その人を尊敬し、その考えを尊重しそこに重きを置いて行動した時、それはもう宗教なのかもしれません。

恋人という関係を契約にしてみた。契約更新するかで悩んでるの。

さくらちゃんへ

 

お久しぶり。今日はまた不安なことがあるから聞いて欲しくてあなたに文章を書いているの。実は、もうすぐ今の恋人と付き合って6ヶ月たつ。びっくりでしょう!今までの恋人と比べたら最長だから、祝ってちょうだい。だけど私、6ヶ月経つ日に彼と別れようかなあと考えている。

 

別れるという言い方はよくないわね。契約を更新しないだけ。彼とは、付き合ったときに「契約」を結んだ。「好きな人と付き合ってもどうしてもすぐに別れてしまうのよね」と話した私に対して彼が提案したことで、「別れたい」と6ヶ月たつ前に言ったら罰金。それから、妥協でダラダラ付き合わないために6ヶ月たったときに関係を続けるかどうか二人で契約更新手続きをしようね、って。

正直、恋人6ヶ月契約を結んでから今までに何回も「別れたい」という言葉が出そうになったわ。でもまあ、五万円の罰金があったからね。さすがに五万円払うくらいなら6ヶ月経つまで我慢して別れるよね。簡単に別れられないようにするための契約であり、罰金。少し冷めたなあって気分になったくらいですぐに「別れたい」と言って、相手を困らせてきてた昔の私の癖を、契約にしたことで改善できた。大成功だわ。だって、別れたいって一瞬は思っても、そのあとすぐに恋しくなったりするから。自分のこと、そこまで気分屋だって思ってなかった。だけど契約にしてから、「なんで自分が不機嫌なんだろう」「私は彼に何を求めているんだろう」っていちいち振り返れるようになって良かったと、ねえさくらちゃん、そう思わない?

 

 

「自分も契約更新しない方向に傾いているんだよねえ」

 と彼が言ったとき、私がけっこう驚いたこと、さくらちゃんなら気づいたかな。すごくショックだった。だって、彼は更新したいに決まってるって思い込んでたから。でも自分も「今のところ更新しないつもり」って言った手前「あ、そうなのね」とクールに返してしまったこと、少し後悔しているわ。

 

【こんまりメソッド】

片付けするときに、捨てるものと残すものを決める方法。一つ一つ必ず手に取り、触れてみる。「ときめき」を感じるものだけ手元に残す。

 

 

昔、彼がこんまりメソッドに対して、

「曖昧で分かりにくいじゃん。それよりもDaiGoが言ってた『一度捨てたとしても、もう一度買いたいと思うものを残しておく』って表現する方が分かりやすいよ」

と言っていた。どうして私は彼と契約を更新しないのか、その理由を考えたときにこのことを思い出したの。

「恋人関係を契約にする一つの理由として、『別に付き合い続ける理由もないけど特に別れる理由もなくて面倒だから別れない』という状態を回避するためっていうのがあるでしょ。DaiGoが言うように、とりあえず一回別れてみて、また付き合いたければ告白すればいいと思うけどどう?」

「自分もおんなじこと、おととい考えてたんだよね!」

そんな話で私たち盛り上がったんだけど、今さくらちゃんに宛てて文章を書いていて、DaiGoは想像の中でそれをして選び取れって言ってるだけで、実際に捨ててみろとは言ってないしなあなんて思っちゃった。

 

本当にもし、こんなにまだ好きなのに、円満に別れることが出来たとしたらすごいことだと思う。だって、今までは何回も、別れた後につらくてさみしくて鬱になったから。だから、不安。理性では一回別れた方が良いと考えているけど、実際に出来るかどうかとか。苦しみが待っているんじゃないかとか。さくらちゃんはどう思う?

とにかく、契約更新か否かの一大イベントを私たちは大いに楽しんでいる。今回は彼も文章を書いてくれたから、ここに載せておくわね。

 

さくらちゃん、これからどうするかはあなたの判断にかかっているのよ。よろしくね。

 

さくらちゃんより

2/2 デート日記 Valentine fair編

デート日記をつけようと、おもいたった。Valentine fair編って、「編」とかつけたけど、一回しか書かないのかもしれない。

 

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江國香織の『ぼくの小鳥ちゃん』。

歩きながらも本を読みたいから、手をつなぐ。小説に集中していても、つないだ手が誘導してくれる。今日は、新宿の高島屋でやっている、バレンタインフェアに向かっている。

 

「意外なものが出てくるよ」

そう言って、あなたは、コートからトランプを取り出した。めんどくさがりやだから、鞄を持たないで、持ち物はコートにすべて仕込んである。財布。PASMO。メガネ。ペットボトルのお茶。小説。

トランプ。

どうして、あなたは、トランプを持ち歩いているんだろう。これからトランプを常に持ち歩こうと思うんだ、とドヤ顔。一体、いつ、使うんだろう。トランプ持ち歩くくらいなら充電器持ち歩きなさいよ、スマホの電池切れて、私と連絡取れなくて困ったこと何回もあるでしょ、って内心思った。だけど、トランプを持ち歩いているのが、なんとなく、可愛いから、突っ込まないであげといた。可愛いって、得してる。

 

「ホワイトデーのお返しのクッキーとかアクセサリーなんて、私、いらないから、バレンタインデーフェアで売ってる、可愛くて、美味しくて、とっても高い、チョコレートが欲しいのよ」

と主張して、あなたを新宿に連れてきた。バレンタインは、あげるんじゃなくて、かってもらうつもりだ。

二時間くらい回って、ほとんどすべてのお店の試食、たべちゃった。買う前に、満足しちゃった。今年は、なんと、BULGARIの試食もあった。いつもないのに。1/4粒。一粒1200円だから、「ああ、私は今、300円を口にする……」って思いながらあじわった。

パパにあげる、お酒入りのチョコ。画家兼ショコラティエが作ったチョコ。それだけ手に入れた。買ってもらえた。自分はいらない、って言うから、私はあなたには、買わなかった。

「まあね、ここにあなたを連れてきた、私のおかげで、高級チョコがちょっとずつ大量に食べられたものだから、もはや、買ってあげるよりも効率的にチョコレートを楽しめたわね」

って言ったら、一理あるね、って。あんな高いチョコ、自分で買わなくて済んで良かった。

 

 

夕ご飯は、クラシルで簡単そうなおかずを選ぶ。

白菜。チーズ。豚バラ肉。私が包んで。彼が焼いた。

デザートは、スタバ風チョコスコーン。私の大好物だ。

ホットケーキミックス。油。牛乳。板チョコ。前は、私が作ったから、今日は、あなたが作った。こねすぎて、膨らまなくて、固いクッキーみたいになった。八個作ったけど、私は一個しか食べなかった。あなたが、たくさんこねてくれたおかげで、太らなくてすんだわ。私の方が、作るのじょうず。

 

あなたは、一度服を脱いだら、めんどうだから、そのあとは服を着直さない。ずっと裸でも恥ずかしくないみたいだ。

「なんでくっついてくるの」「寒いんだもん」「服着れば」「服着たら暑いんだもん」

分かる。服を着るには、暖房がよくきいた部屋は、暑すぎるのだ。

 

「あたしびょうきになったみたい。ちょうどびょうきになってみたかったところだから、よかったの」

「びょうき?どんな?どこかいたむの?」

「べつにどこもいたまないわ。びょうきってものがどういうものなのか、あなたには全然わかってない。びょうきっていうのは一日じゅうねていなきゃならないものなのよ。どこへもでかけられないの。一日じゅうねて、朝と夜にお薬をもらって、じっとしてなきゃいけないの」

「わかった」

「それから、お薬っていうのはラム酒をかけたアイスクリームよ、言っとくけど」 

今朝読んだ、『ぼくの小鳥ちゃん』に、こんな会話があったのを思いだして、「あたし、びょうきになったみたい」ってまねして言ってみた。そしたら、「びょうき?なんの?どうしたの?」って、完璧な返事。「だいじょうぶ。お薬が必要だけど」って言ったところで、困った。小鳥ちゃんみたいに、一日じゅう、ここで、寝ていたいけれど、明日は朝からバイトだから帰らなければいけない。それに、お薬は、ほんとは、私、チョコがかかったアイスクリームがよかったけど、今ここには、固いチョコスコーンしかない。「お薬って?」困ったなあ。しかたがない、キスにでもしておこう。恥ずかしいなあ。小説のまねをしようとして、けっきょく、「お薬がキス」だなんて。そんな陳腐な小説あったら、ぜったい、私、読まない。でも、現実なんてこんなもんなのかしら。陳腐な恋。いつ、飽きるんだろう。なんもないこの部屋から、出ていきたくないなんて。

いつになったら、この部屋、価値が消えさるんだろう。

私には、小説みたいな恋は出来ない。

さくらちゃんは、いつも、ソックスなんて履いているけど、それは、足首にいつも巻いてある金のアンクレットを隠すためだ。男の人と会うときだけ、彼女は、それを見せるのだ。シーツの上で、さらさら揺れると、綺麗なのよ。そう、私に言ったことがある。それも、ココアにバターを落とすと、おいしいのよ、というような自然な調子で私にひそひそと話して聞かせるのだ。

 

憧れていた。こんな風な私に。

やっと、金のアンクレットを、手に入れた。でも、ぜんぜん、山田詠美の小説の登場人物には、私、なれなかった。

恋人に、綿密に、どんなかたちのものが欲しいかレクチャーした。もらったものは、完璧だった。普段は、誰にもばれないように、よく目を凝らさないと、見えない、足首のくぼみに埋もれてしまうほど繊細な、細い鎖のような、金のアンクレット。

だけれど、それは、本当に繊細で細すぎて、壊れてしまうんじゃないかって、怖くて付けることが出来ない。普段はおろか、シーツの上で、さらさら揺らすことだって、そんな余裕はないのだ。揺らそうとしたら、不自然な格好になるに決まっている。

悲しかった。小説の登場人物と、私って違うんだって。小説のような美しさに憧れても、実際には、小説ってそこまで、具体的な役には立たない。

アンクレットは財布の中。

 

 

金もくせいの匂いがする

甘くて歯が痛くなりそう

秋には恋に落ちないって決めていたけど

もう先に歯が痛い

金もくせいを食べたの

金もくせいも食べたの

だから

歯の痛みにはキス

 

素顔に真っ赤な口紅だけ引いた年上の彼女が、キスをする。そしたら、彼の唇に口紅がついた。まるでクレヨンで線を引いたみたいに。

 

そんな秋が、私にも来るかもって、少しだけ期待してた。恋をしたら。だけど、秋に来たのは、金もくせいの甘い匂いとは対照的な、苦い思い出だけ。私が歯が痛いと思ったらそれは虫歯だし、素顔に真っ赤な唇だけなんて、絶対、できない。わたしがすっぴんで外に出たら、高三か浪人の受験生ですか?って聞かれちゃう。

 

小説への憧れは、現実との裏切りで、さらに増す。現実は違う。

夏に恋が似合う、なんて言いながら、主人公が、彼との思い出のお酒の味に似てる、渋いジントニックを飲んでいるシーンに憧れた。でも、私が初めてジントニックを飲んだのは、安い居酒屋の甘ったるいジントニックだ。

あーあ、どうして、こうなんだろう。やっぱり、背伸びってかっこ悪いのかしら。小説のまねをしても、同じ気持ちにはなれない。気持ちがあって、あとから、小説の一節が、これ、私のものだって感じられる。お酒を飲んで、恋を思い出せるようになる日は、いつになったら来るんだろう。

 

不倫が不道徳なんて言うやつは大人じゃないわ。

もし、もしも、自分の彼氏が、可愛くて、まだ未熟な感じが心をつかむような魅力的な女と浮気していたら、きっとすごく、うらやましい。

うらやましすぎて、すごい、嫉妬すると思う。

浮気って、恋のせいで常識なんかどうでも良くなった人にとっては、楽しいんじゃないのかしら。私という正式なパートナーがいるからこそ、きっと、二人で会うときに、絶対ばれてはいけない秘密としてのドキドキと、相手に対する愛しさによる胸の締め付けが混ざり合って、ぐちゃぐちゃになって、どっちがどっちだなんて区別がつかなくなる。でも、どっちが本物かなんて、そんなのどうでも良くて、ってなりながら楽しんだんだろうなあって想像する。こんな想像、お門違いかもしれないけど、私だったらそんな想像をしてしまう。

正直、芸能人の不倫や離婚、トラブルなんてどうでもいい。どうして、自分たちには全く迷惑がかかっていないのに、誰が最低とか、誰が可哀想とか言えるんだろう。私たちにとって、その人たちの関係性なんて、知ることが出来る範囲はわずかなのに。

私は、顔も見たことも無い人に、最低とも言われたくないし、可哀想とも言われたくない。浮気をしたことについて、他人に最低だなんて言われる筋合いはないし、浮気をされたことについて可哀想だなんて言われたくない。最低?浮気をすることで、あなたを傷つけましたか?私に悪口を言いたいなら、その人を擁護するふりしないで。私が、楽しんだことを嫉妬しているだけでしょう。悪口を正当化するために、浮気という陳腐な言葉で糾弾しないで欲しい。可哀想?私が、あのとき、好きになったあの人を全否定されたら、私があの人を選んだという過去も否定されている気がするわ。そんなことは無いと思う。いかにその人が最低だって、本当に好きだと感じたことまで批判されるくらい他人にその人を罵倒されるなんて、そっちが最低だと思うわ。

 

私はしたり顔で物を言うってのに我慢が出来ないの。個人の事情なんて誰にもわかんないんだから。それなのに、皆、丸とかばつとかつけて決めようとする。不倫が不道徳なんて言うやつは大人じゃないわ。

 

高校生の時に持っていた、あのときの、しょうもなくて、今思い出すと恥ずかしい自己欺瞞を、思い出す。学校内カップルの女の子の側から、彼氏の悪口を聞いたら、最低だなと真に受けて男の子の方を勝手に嫌いになったりしてた。私は何もされていないし、関係ないのに。私と彼の関係性なんて、変わるよしもないのに。

 

何人かを、好きになったことのある今なら、分かる。普段の顔と恋人に見せる顔とは、自分でも驚くほど違うってこと。だから、だれにも私たちのことなんて本当のところは分からなくて、だれも口に出せない二人だけのものだからこそ、分からないような不埒な関係性だからこそ、素敵だってこと。

分かって良かったなって思う。

私の彼氏には、好きな女が2人いる。

「友達と恋バナをしたんだけど、友達が『好きな人が二人いるのはおかしい!』って言うんだよ」

「好きな人って、私ともう一人誰かいるってこと?」

「そう。友達は、『彼女のことは大好きなのに他にも好きな人がいる、っていうのは聞いたことが無い』んだって」

「へー。それは、珍しいね。好きな人が何人もいるなんて、たぶん、けっこう普通なことなのにね」

恋人に、突然そんなことを言われて、相手は誰なんだろうと、胸がざわついた。普段の自分が「好きな人が何人もいることを否定する人は、不誠実だ!」なんて、豪語していることを、少しだけ、後悔した。まあ、だいたい想像つくけどね。私は一度だけ、彼の紹介で会ったことのある、小柄で自然な感じの可愛い女の子を思い出した。

なるほどね、好きそうだもんね、ああいう感じの女の子。

そうなんだよねえ。と、頷く彼は私をからかっているわけでもなさそうで、そういう天然なところは全然私のタイプなんかじゃない。もっと考えて、私を嫉妬させようと企むくらいでいなさいよ、そう思うけれど、そうやって怒ったところで、「分かった」と彼は素直に頷いて、その通りにするだけだから困ってしまう。素直で、とっても可愛い。なんだかんだで、いつも、許してしまう。

 

そんな恋人とのセックスはスポーツみたいだな、って思う。つまり、どちらがより、相手を快感に導けるか、っていう競技みたいなもの。例えば、鏡ばりのラブホテルなんかは、私たちのゲームをするには、もってこいのグラウンドだけど、私たちのスポーツはあまりにも楽しくて、快感で、その分とても健全で、だからそれは、私に文章を書かせたりはしないのだ。たとえそこが、私の大好きな場所であったとしても、たとえそれが「恋」「恋愛」と呼ばれる行為の一部であったとしても、私の恋愛ブログには載らない。私に文章を書きたいと思わせるのは、健全なセックスよりも、不健全な散歩だったりするのだ。

 

好きな人が何人もいるのは、意外と当たり前のことなんだ。

だけど、それでも私は、彼のことをたった一人の恋人として、彼も、私のことをたった一人の恋人として、たくさんの時間とお金と愛情を使っている。二人は、まさにカップルっていう事柄を、そつなくこなしている。ディズニーランド、イルミネーション、温泉旅行、記念日のプレゼント、休日にゴロゴロ、散歩、遅刻からの小ケンカ、会えない日の電話、生理がちゃんと来たよ!という報告。それらは全部、周りの人がやっていて、無難で楽しそうだから、私たちもやってみようっていう、ふわふわしていて、わりとラクで、まさに、「小さな幸せ、普通に過ごせるという幸せを大事にしよう」って言うときの、幸せなんだと思う。そんな小さな幸せを、周りがやっていることを試して、二人で協力してつかむことを、楽しんでいる。なんだか、こうやって、なんでも遊んでいるようになっちゃうところもゲームみたいだな、って思う。友達みたいなカップル。悪くないな、って思う。

 

私にも、恋人以外に、もう一人、好きな男がいる。

もうすでに、それは冗談だったのか本気だったのか分からなくなってしまったけど、結婚したいと思う人がいる。

「結婚しようね」

今までに何回、私はこう繰り返しただろうか。

「しないよ、あなたは変な人だね」

「昔、していいって言ったじゃん」

「恋人いるのにそんなこと言って罪悪感ないの?」 

罪悪感?そんなものがあったら、こんな風には言ってない。そう、あるのは、罪悪感なんかじゃなくて、エロさを催す背徳感だけ。エロいこと、大好きだ。罪悪感にまでいってしまったら、全然エロくないから好きじゃない。

「好きな人が何人もいるのは普通なんだよ」

私たちはいつも、並んで歩くとき、とてもくっついている。こういうのを”ゼロ距離”って、いまどきは言うらしい。けれど、どんなに手が触れても、握ることはしないのだ。

そうだね、俺もそうだ。そう言って笑う彼がいとおしい、そう思ってしまった。

99年生まれ、さくらちゃん

「私、人には、階級ってものがあると思うの」
「え?」
 
 安っぽいネオンが目に優しく光る。歌舞伎町にある三時間2500円のラブホテルの部屋で、さくらは言った。彼女は肩に、薄っぺらいバスローブを羽織っている。さっき、さびれたお風呂に、お湯、濁ってるね、と苦笑いしながら一緒に入ったのだ。彼女の突然のその言葉に、私は福沢諭吉の言葉を思い出した。天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らないんじゃなかったっけ。一万円札に乗るような人が言った言葉だから、完全に正しいとまでは言わなくても、そこそこ国民の総意だったりするんじゃないだろうか、と私は思う。それに、世田谷区の実家に住み、両親に大事に育てられ、日本の最高学府である東京大学に通っている彼女みたいな人が、人には階級があるなんて言っちゃいけないような気がする。だって、それってすごく、皮肉なことじゃない?私みたいな人は階級が上なのよ、って言ってるようなものじゃない。
 そういうことじゃあないのよ、とさくらは、少し、うれしそうな顔をして、こっちに首を曲げて言う。彼女は山田詠美という女流作家がお気に入りで、しゃべり方は、その作家の描く小説に出てくる登場人物を意識しているようだ。
「日本の道徳教育って、人は平等だって教えられるでしょう。でも、それってすごく危ないことだと思うのよ。だって、今の人って平等だと思う?私は、全然、そんなこと無いと思う。全然嘘なのに、子どもたちに人は平等だって教えたらいけないと思うのよ。私は確かに、自分のこと、環境にも才能にも恵まれて、まさに上流階級だわって思っているわよ。でもそれは、人は平等なんかじゃ全然ない、って認めることが出来てからの話。この前まで、人は平等だって本気で信じていたし、東大に入ることが出来たのは、ほとんど自分の努力のおかげだ、って本気で思っていたのよ」
 さくらは、私たちは決して平等ではないし、完全に平等になんかなることは出来ないんだ、と言う。そもそも、平等という概念自体、あやふやなんだから、と。そんなの、私にだって解っている。それでも、小学生に道徳教育をしなくちゃならないのなら、そう言わなくちゃいけないのじゃないか。
「さくらみたいに、道徳教育を批判するだけなんて、一番たち悪いんじゃなーい?」
「あら、道徳教育なんてくそくらえよ。大体、道徳なんて一つも解ってない大人にどうして道徳なんてもの、教えてもらわなきゃいけないのよ。道徳教育っていう言葉が嫌いだわ。せめて、日本の規範教育とかなら許せるわ」
 
 さくらは、他の友達みたいに、簡単に、これが「真理だ」とか、「倫理的だ」とか、「道徳的だ」なんて言ったりしない。それが、誠実だってことなんじゃないかと、彼女を見ていると私は思ってしまう。他の子ときたら、これが私にとっての真理だ、って簡単に言ったりする。「わたしはわたしだ、他の誰でもなくわたしなんだ」なんて、ちょっと、カッコつけたことを言ったりするのだ。その言葉に、なるほど、と思った時期もあるけれど、彼女と一緒にいて、だんだん疑問に感じてきたのだ。だって、わたしはわたし、なんて当たり前すぎる。当たり前すぎることは、正しいけれど、正しすぎるが故に、何も言っていないのと同じなんじゃないのかしら。たしかに、一人一人、人間は違う。「だから、一人一人に合わせて、それぞれの関係を構築して行くべきだ」って、ジェンダー論という授業で、先生が言っていたのを、私はよく覚えている。その時、それって当たり前すぎるじゃないの、って思ったから。一人一人、適切な関係を構築できれば、それに越したことはないけれど、それを言ったら、ジェンダーの問題は解決してしまう。そんな簡単に、それぞれ違うんだから違う仕方で構築していけばいいじゃん、って言われて、ジェンダーの問題を抱えている人は、納得するのだろうか。それぞれ違うと言ったって、みんな、社会の中に生きていて、自分を包む社会の影響を全く受けていない人なんて、いない。人の違い、というのは、一体どこからくるのだろうか?と思った。それこそ、法や文化などの社会なのではないだろうか。もしそうだとしたら、社会を無視して、個人だけに注目するやり方は成り立たないと思う。
 さくらは、「私はフェミニストよ」とあっさり言う。私には、私はフェミニストだって、みんなに表明する勇気なんてない。フェミニストって、なんだか、よくないイメージだもの。周りのたくさんの東大生は、ジェンダーに関心を持ちながらも、自分をフェミニストだって名乗る人なんていない。「あら、少しでも、今あるジェンダー規範に疑問を持つなら誰でも、フェミニストになる資格があるのよ」そうかもしれない。もし本当にさくらの言う通りだったら、みんなフェミニストじゃないか。
 
「ねえ、名誉男性って知ってる?」
「一応知ってるよ。えっと......男社会に迎合して地位を得た女性のことでしょ......?」
「そう、それって、実は私のことなのよ」
「え?さくらは、迎合せずに戦ってるんじゃないの?」
「本当はそうしたいのだけど、残念ながら、けっこう、迎合してるのよ。可愛くない女は勉強で頑張るしかない!って、自分に言い聞かせて、東大に入ったし、好きな男の前では、一生懸命こびを売る。ぶりっ子なのよ私って、実はね」
 そんなふうにすまして言う彼女が、男の前で猫撫で声を出してるところなんて、想像がつかない。それとも、私の前ではすましている彼女も、好きな男の前では、自ら弱い自分を演じたりするのだろうか。それってすごくいやらしい。そうよ、好きな男に敗北するのって、すごく気持ちがいいことなのよ、と言う彼女にわたしは何も言えない。そんな風に感じたことが、まだ、ないからだ。いやらしいことが、そのまま、気持ちよい心地に変換することなんて、想像するだけで、顔が赤くなってしまう。
「だからね、確かに私は、今のジェンダー構造に疑問はある。けど、それよりもっと、じゃあ、どこで線を引けばいいかってことに、勉強する意義を見出してるのよ」
「男と女は違うってこと?上野千鶴子が男と女を二元化しすぎることは、よく批判されているわよ。線を引くって何?」
男と女を二元化して考えること自体が、男女の差を広げたりするんじゃないだろうか。
「男と女は違うのよ。だって、体の構造が違うじゃない。黒人と白人だって違うわ、だって、肌の色が違うじゃない。健常者と障害者だって違うわ、だって、できることが違うじゃない。私とあなただって違うわ、だって、見るからに違うじゃないのよ。でも、私とあなたの違いは個人で比較されているけれど、前者3つの違いは、カテゴリーで比較されている。カテゴリーって難しいのよ。カテゴリーのおかげで、社会がうまくいくこともあれば、誰かが、カテゴリーに縛られて苦しい思いをすることもある。私はもし、合理的に仕事を割り振るなら、力仕事は男のカテゴリーに割り振るし、赤ちゃんの世話は母乳の方が粉ミルクよりも健康に良いから、女のカテゴリーに割り振る。でも、世の中そんな簡単にいかないことは、みんな感じているから、フェミニズムがあるんじゃないかしら。力の弱い男性だっているし、赤ちゃんが欲しいけど仕事をバリバリしたい女性だっている」
 確かにそうだ。さくらは、もっともなことを言っていると思った。だから、ジェンダーの授業で、人それぞれだから一人一人に合わせた関係の構築が必要だ、って当たり前のことを言う人が出てくるんだ。でもそれじゃあ、解決しない。すでにあるジェンダー格差を見つめて、何かを変えていかなければ、今の均衡点で安定している世の中は、自然に動いたりしないのだ。じゃあどうすれば良いのだろう。上野千鶴子が東大の女子率の低さを改善するために、アファーマティブアクションも必要だって言うことに、みんな批判する。それは東大内部のせいじゃない、社会全体が悪いんだって。でも、考えられる社会全体とはどこなのだろう。社会全体を変えるにはどうすれば良いのだろう。結局、東大などの小さな所から変えていくしかないのではないのじゃないか。
 
「線を引くっていうのはね、本当はできないの。でも、やるしかないの。そういうものってあるでしょう」
 例えば、虐待の連鎖ことを、彼女は言っているんじゃないか。ニュースで見る。子どもを虐待して、殺してしまう親。どうして、あんな、可愛くてか弱い存在にそんなひどい仕打ちが出来るだろうか、と心が痛む。けれど、その虐待をしてしまう親達のほとんどは、幼少期に虐待されているのだ。自分の子どもに虐待をした親のうち、虐待された経験がある人は、72%にも昇る。彼らは、虐待されずに、まともな家庭で育っていたら、虐待をしていなかったのだろう。そう思うと、酌量すべき原因はそこにある気がする。じゃあ、彼らは責任をとる必要はないのだろうか。きっと、そんなことはないと思う。いくら、原因があったって子どもの親になったからには、というか、生きているからには、なにか責任を背負うしかないのだ。どんなことにも原因と責任を考えることが出来る。きっと、原因と責任に線を引くことなんて、私たちの誰にも出来ない。けれど、今のこの社会を成り立たせるために、「法学」は無理矢理、原因と責任に線を引いているのだ。
 
「左足がない子がいました」
突然、彼女は語り始めた。
「もう一人、五体満足の子がいました。この世界は徒競走社会です。子どもの頃に、徒競走で早いタイムを出せば出すほど、将来、地位や権力、経済力を得るのに有利になります。この二人の場合、普通に競争すれば、五体満足の子が勝ちます。でも、それだと、左足のない子はかわいそうすぎるから配慮してあげます。機会の平等とは、あらかじめ、競争に不利な子に、競争に対等に参加できるように義足をつけてあげることです。私たちの世界に当てはめて考えてください。赤ちゃんを産む性である女性には、産休や育休があたえられています。障害者には、特別な補助があったりします。このことに文句を言う人はいません。それでは、対等に競争できるように、左足のない子には、五体満足の子と同じタイムを出せるだけの下駄を履かせるべきなのでしょうか。果たして、それが、適切なことなのでしょうか。私はそうは思いません。左足のない子には、徒競走意外の、その子にとって得意な分野で活躍して欲しいと思ったからです。......ああ、だけれども、この世界は徒競走社会です。徒競走が苦手だと、一気に道が狭くなり、生きにくくなってしまいます。やはり、いくらかの補助が必要でした。もう一度私たちの生きている世界に当てはめてみましょう。私たちは、徒競走社会ではなく学歴社会に生きています。一つの受験で、大きく人生が変わります。たかが受験だと思うでしょうか。人が受験や大学に縛られないのなら、すごく良いことかもしれませんが、そこまで強い人間を、私はあまり見たことがありません。もし、もしです、日本で女として生まれたことが、日本最高学府の東京大学に入るのに不利になるのなら、少し、下駄を履かしてあげても良いかもしれないのです。もし、今の構造の不平等の方が、アファーマティブアクションを行ったときの逆不平等よりもひどい確率が高いなら、少し無理矢理でもやらなくてはいけないことがあるのではないのでしょうか?」
 そこまで言って、彼女は息を切らした。少しムキになっているみたいだ。どうして、彼女はそんなに必死なのだろう。
 
「恥ずかしいの」
「えっ?」
「昔の自分が、恥ずかしいの」
「………誰でも、恥ずかしい自分はあるでしょう」
「うん……。でも、男にモテるような可愛い顔か、男と対等に戦える学力を持っていなきゃ、女に生まれた人間として駄目だって、本気で思っていたのよ。そんなの、何も解決にもなっていないのに。構造自体は、疑っていなかったの」
「構造を疑うなんて、ずっとなんか出来ないよ。つらいし、大変だもの。構造の中で頑張るしか無いって思うわ。さくらは、この構造の中で充分、頑張ってきたじゃない」
「うん、私もそう思うわ。でも、構造自体で不利な人がいるってことを忘れたくないのよ。私はたしかに、高校時代に泣きながらたくさん勉強して、男にモテるために、いろんな試行錯誤をした自分の努力を、信じているけれど、信じられない部分だって残されているわ」
なんだか、苦しそうだ。私は、どこまで考えているのだろうか。きっと、全然、考えられていない。それでも、自身の歴史に、黒の絵の具を塗りたくる覚悟で、恥ずかしい思考を繰り返していかなきゃいけないのかもしれない。このままの私を保っていれば、今の私を恥ずる未来は訪れない。けれど、私だけの真理を見つけたと思ってしまったら、そこで私の歴史は終わってしまうのではないだろうか。
「私にはわからない。でも、これだけは解るの」
「なにを?」
「日本の受験、ペーパーテストって、マルバツ決まってて、とても平等だって思ってた。でも、見方を変えればすごく不平等だとも思うの。親の学歴、経済力、教育、住んでいるところ、生まれた性、もっと言うと遺伝なんかで、有利不利があるってこと。そして、そういうことに、気づくことの出来たことが私にとって、大切なことだ、ってことは解るの」
 
可愛い人、賢い人、このままの社会で評価される人。可愛くなることも、賢くなることも、この構造の中で上を目指しているだけだ。けれど、本当は、人が人を評価することなんて、難しすぎてできっこない。法の中で生きるわたしたちは、なにか、自分の中に漠然とある基準と、そして、たまの、その基準への疑問から逃げることが、できない。

一番はじめの記憶を思い出したい。

 

さくらちゃんへ

 

今日は、一日中、前世の記憶を思い出そうとしていました。

こういうことをしようと思った経緯をまずお話ししたいと思うのですが、実は昨日、ある人とけんかをしてしまいました。さくらちゃんなら相手が誰かは察することはできると思うので、あえてここでは誰かというのを書かないことにします。それで、なんでけんかをしてしまったかというとですね、約束を破られてしまったんです。私にとってはとても楽しみにしていて、大事な約束だったのに相手にとってはそうでもなかったみたいです。こういうことは往々にしてあります。それはそうです。自分にとって大切なことと相手にとって大切なことというのは違いますから。だから、そのときは必ず果たそうと思ったのかも解りませんが、結局のところその約束は果たす未来がたたれてしまったわけです。こういうときは怒ったら良いのでしょうか。私はその人に、「いくらでも怒ってくれ、聞くから、殴ってくれても良いよ」と言われました。困りました。私が怒ることで気が晴れると思ったのでしょうか。私はそんな感情に傾いた馬鹿な女ではありません。その人に対して、怒ったり怒鳴ったり殴ったりすることで、全くもって気持ちが落ち着くとは思えません。そんなことよりよっぽど、なぜその約束が果たされないのかを説明してもらったり、その謝罪の気持ちを行動に変えたりすることのほうが、私は納得し、気持ちが落ち着くというものです。しかし、悲しいことに説明はどうしようもないものでした。ここで、なぜどうしようもないかということを説明するために、どういった約束が破られてしまったかを白状してしまいますと、それは「ある場所に行く」という約束でした。それはそれは楽しみにしていたわけで、この約束を破るとはどんな理由かと思いましたら、いかにも、単純な理由だったのです。「他に一緒に行きたい人がいる」というものでした。そう言われたら、もうこちらとしてはどうやって返して良いか解りません。つまり、「他に一緒に行きたい人がいる」からどうしても私と行けないということが、曲げられないというのなら、もう怒る気力も失ってしまいます。そんなことを考えながら、やるせなくなり、涙を流していたら、その人は「怒って、もっと怒って!それだけ?殴っても良いんだよ」と執拗に言ってきます。怒り文句を考えたり、怒ったように言葉を発することはとてもエネルギーがいることでしたが、私はその人が怒って欲しい気持ちも分かってしまいました。それというのも、やはり好きな人には嫉妬されたいのです。私も好きな人に嫉妬されないときは、思っていたのと違うと思い、かなり焦ります。嫉妬で愛を確かめるなんてやり方、幼稚だと思いますか。私もそう思いますが、なんと20歳になった今でもそんなやり方から私たちは抜け出せていないのです。そんなこんなで共感し、怒ったふりをしてしまった私は、今から思うと相手の思うつぼですが、怒って、そして顔を殴ってしまいました。もちろん、これまで、人の顔を殴るなんてことをしたことはなかったので、それはそれはショックで、私は自分の胸に殴った力以上の力でパンチされたようでした。謝りましたが、「いいんだよ」とその人は繰り返しました。その人にとっては私に殴られて「いいん」でしょう。でも私にとっては「いいん」くありません。その時はいくら相手がして欲しかったとはいえ、殴ってしまったという罪悪感で目からあふれる涙が止まりませんでしたが、今思うと、後悔が押し寄せてきます。怒らなければ良かった。「あなたはヒステリーを起こさないね」と言われ、「だってこういうとき誰に怒るの?あなたが一緒に行きたいと思った人に?それともそういう心変わりをしてしまったあなたに?それは仕方の無いことで、違うんじゃない?怒るなら神に怒りたいけれど、私は神とまだ知り合いじゃないのよ」と返すいつもの調子のまま、怒らなければ良かった。

そんな後悔が押し寄せてくると、私は本当に死にたくなってきました。自殺とは、勇気のいることかもしれませんが、私のその時死にたかった気持ちと自殺した人の死にたい気持ちが、それほど違っているようには思えないのです。違いと言えば周りの環境では無いかと思います。これからまだやり残したこと希望の量や、死ぬと考えたときに浮かぶ人の表情、そんな少しの環境の差だと思います。私には死ぬ勇気が無かったのです。リストカットをするというアピール的なことも考えましたが、リストカットほどダサいことはありません。自分で死ぬ、というすごいことを仄めかすような真似は私にはできません。「死にたい」と口にすることと、リストカットすることもそれほど気持ち自体には差があるとは思えませんが、差があると言えば、それを見る周りの人へのアピールの度合いです。私がここで死にたいと言ったところでどうせ真剣に取り合う人などいないのです。だからこそ、死にたい気持ちは一緒でも、わたしは安心してリストカットほどダサいことだと思わずに、「死にたい」と言えるのです。

死んだらどこへ行くのだろう。こんな問いを東大の哲学の授業で出したら嘲笑されることでしょう。少なくとも、教授には相手にされないでしょう。ちょうど、社会学のディスカッションの場で遺伝や本能について口にするのと同じことです。そんな議論の余地をなくしてしまうようなことを言ってはいけないのです。学問の場ではそうです。学問というものを偏った思考だと批判しているように捉えられるかもしれませんが、そういうわけではありません。真剣に学問をやっているからこそ、そんなのわかっていて議論の余地のあることを話しているんだよ!という彼らの心の叫びが聞こえます。それでも考えてしまうのが、死んだらどこへ行くのだろう、という問いです。もはやこれは哲学という学問ではないのかもしれません。たくさん考えます。しかし、私が死ぬのは未来に起こることです。未来に起こる些細なことさえ完全に予測できるわけではない私たちがどうして死んだあとのことを予測できるでしょうか。私は生まれる前のことを思い出した方が、よっぽど現実的だと思ったのです。過去のことだったらもう起こった事実というのはあるのだから頑張れば思い出せるかもしれない。

そんなこんなで、長くなりましたが、前世を思い出そうとしたのです。

結果はどうだったか。前世は思い出せませんでした。とにかく一番最初の記憶は何だろうと必死に思い出そうとしたのですが、それは、3歳か4歳のときに、同じ保育園の男の子と「しょうらいは、けっこんしようね!」と言い合って両手をつないでいるときの記憶でした。今ではその男の子はInstagramでつながっているだけで、何年も話しても会ってもいませんが。とにかく、0歳や1,2歳の記憶はありませんでした。生まれた直後の記憶はきれいさっぱり消去されているのです。何という完璧さ。きっと生まれる前の記憶が残っていたら何かまずいことでもあるのでしょうか。全く隙の無い私たちの生命。まあ最初からそこまで期待していたわけではありませんでしたが、私はもっと大変なことに気がつきました。私は一年前のことでさえも余り正確に思い出せないのです。大事だった思い出でさえも、メモに残した少しの記述以外のことが思い出せません。事実自体や大体の感情は思い出せてもぼんやりしているのです。夢のように感じるのです。あの頃のことをはっきりと覚えているという言葉を使う人もいますが、それは本当にはっきりなのでしょうか。あたまの中で浮かぶ絵がはっきり写っていたとしても、どこかぼんやりしているような、そこにいる人の顔がまるで作り物のような感じがします。私は死ぬときに、またすっかり私として生きたことを忘れるようにできているのでしょうか。それでもいいのかもしれません。ただ、それも少し残念な気がしたので、今日ここに今日思ったことを記しておきたいと思います。

おやすみなさい、さくらちゃん。

 

さくらちゃんより

お久しぶりです、さくらちゃん。

さくらちゃんへ

 

お久しぶりです。もうあなたには話しかけないと思っていたのに戻ってきてしまいました。私、最近、さみしいんです。別に、友達がいないわけでも恋人がいないわけでも相手にしてもらえないわけでもないんです。ただ、外に出ているときは自分の部屋に帰りたくて帰りたくて仕方ないのに、部屋に戻ってきてベットに横たわると途端に外に出て誰かに会いたくなります。だれか、私のことが好きな人と一緒に散歩がしたくなります。それなのに、恋人に会っているときは、彼のことなんてどうでも良いと感じてしまうんです。「何考えているの」と聞かれて、困ってしまいます。私の考えていることなんて、痩せたいけどパフェ食べたいなあ、とか、家に帰りたいなあ、とか、何でこの人私に興奮できるんだろうなあ、とかそれくらいです。彼とは、ハグできるだけでも十分です。ハグをするのに言葉はいりません。ハグは大好きです。彼がぎゅっとすると体のあちこちに油を差されたみたいに、だらあと力が抜けます。私はいつも掛け布団になります。重い?と聞くと、ちょうど良いよ、と返されます。お気に入りのかけ布団みたいです。

 

 

「マキシマイズハピネス、ミニマイズサファリングが重要」と彼は言いました。

「生きる意味が幸せだなんて納得できない、生きる意味が生きる意味だって言っているのとおんなじだよ」と私は言いました。

ナンセンスです。「幸せ」なんていう言葉は、「生きる意味」をそれっぽく言い換えただけです。そうすることで、生きる意味について考えるのをいったんやめるためのちょうどいい言葉を、みんなに与えただけなんです。そう言ったら、彼はなにか、続けて言っていましたが、私はだんだん悲しくなって、なんて言っていたかは聞こえませんでした。泣けてきました。

私はかわいいと言われたいんです。さくらちゃんもかわいいって言われたいでしょう。でも、わたしの泣き顔はおかめ納豆のおかめみたいだから、腕で覆うしかないんです。でも本当は泣き顔もかわいいねって言われたい。それも、お世辞じゃあなくて、ぽろっと出ちゃったみたいに言われたいんです。私のことを好きになる人は、いつも、「顔じゃないんだよね」と言います。さくらちゃんへの褒め言葉は、かわいいよりも圧倒的に、色々考えていておもしろいとか、変な人だとか(多くの人はなぜか、変な人という称号を褒め言葉だと勘違いしているようです)、そんなのばかりです。そんなの解っているんです、私はそこそこ賢いし何でもできますから、私の顔と比べたらスペックのほうが評価されますよね。でも、私はかわいいと言われたいんです。「かわいいから、好きだよ」って言われたいんだなって気づいてしまいました。わたしはなんで生きているのか解りません。この世界に必要とされているようにはどうしても思えませんし、わたしが死んでも、この世はそんなに変わらないと思います。でももしかしたら、かわいいってことが、生きてる意味になったかもしれないと思うと、かわいく生まれてこなかったことを、とてもとても残念に思えます。

 

 

さくらちゃんは子供欲しいですか。わたしは、子供を産まないことにしました。だって、ただの生の連鎖にしたくない。世の中の子供を一生懸命育てている人は、ただの生の連鎖のひとつです。自分の子供が立派に育って欲しいと願っています。子供を産んで育てて立派になって欲しいと思っても、その子供も子供を産んで育て立派に育って欲しいと思ったら、ただそれがずっと続いていくだけです。私は、子供を産んで満足したくない。私の小さな希望を、子供に少しも、分け与えたくない。私のパパとママの希望の一部は私に託されました。私の希望は私の希望です。あなたの希望も私の希望です。けっして自分のための希望を、絶やしたくありません。

 

ふと、プラトンの気持ちが分かりました。さくらちゃんにも教えてあげたいです。それとも、同性愛者をプラトニックラブと名付けたのはプラトンではないのかもしれません。どっちにしろ、同性愛をプラトニックで純粋な物だと思った誰かの気持ちがよく分かります。私だって、自分たちの行っている行為が、子供を作るための欲求だなんて思いたくありません。そんなことのために、私たちは裸で抱き合っているんじゃあなくて、もっと、違う物を作るためにそうしているんだって思います。だから、同性愛者はずるい、同性愛ってだけで、それがすでに証明されているような気がします、私は異性愛者だからわざわざ言葉にしてそれを証明しなければいけないのに。

 

 

文章を書くよりも、対面で思っていることを伝えるのは難しいです。だからこうしてさくらちゃんに聞いてもらって整理します。わたしは、頭の回転が悪くて、たまに臆病だから、テキトーなことを言ってしまうことがあります。それでも、ほんとうは、幸せなふりだけはしたくない。幸せじゃない時は幸せじゃないと言いたい。子供が好きじゃなかったら、子供が好きじゃないと言いたい。恋人を心から愛してると思ってなかったら、手をつないで散歩したくない。体が感じていないのに、ため息を聞かせたくない。優しくしてくれる人の誘いでも、行きたくなかったら断りたい。美味しくないものは一つも食べたくない。賢くない色気のない文章なんか、一行も読みたくない。簡単に本質とか口にする人を、褒めたくない。

 

 

 

人のうでの中に入ることは、うれしいけれどかなしいことなんですね。

 

さくらちゃんより

本当の愛なんて信じていないけど、結婚してください。

「彼氏の家に泊まるのはやめなさい」

「なんで」

「まだ自己管理ができていないでしょ」

「もう20歳だよ」

「彼氏が挨拶しに家に来たら考える」

「この前来たじゃん」

「家に泊まって良いかなんて聞いてきてない」

「じゃあもう一回連れてくれば良いのね」

「そんな、彼氏のことペットみたいに言って良いわけ」

「別に、ペットだなんて思ってないもん......」

 

彼が私の肩に手をかける。その腕がすごく重く感じる。進もうとしているのに後ろに引っ張られるみたい。犬なんて飼ったことないし、犬なんて、絶対にこれからも飼わないと思うけど、犬を散歩するのってこんな感じかなと思う。

 

散歩するときに、すぐに家に帰ることができるように、私は自転車を持って行く。でも、自転車を持っているのに、押してだらだら歩くのは耐えられなくて、私はいつも、小さな加速度で自転車をこぎ始める。いつのまにか、彼を置いてけぼりにする。彼から私の姿が見えなくなるところまで置いてけぼりにして、ここまでくれば、彼が追いかけるのを諦めて、「なんで置いてけぼりにするの」って怒ってくれるかと思って。でも、全く焦らず追いかけてきて「すごく、置いてけぼり」とだけ彼は言う。あとで、「自転車をタラタラ漕いでいるのを見るのも好きだな」と言う。

彼は、怒らない。

完全に置いてけぼりにしても、めんどくさくなってデートを途中で放りだしても、自分のほうが待ち合わせに早く着くのはいやだからわざと遅刻していっても、あまり悩まない彼にイライラしても、それで議論でボコボコにしようとしても、食べるものも行くところも見る映画も彼に何がしたいかとりあえず聞いて出してくれた提案を全部却下してから結局私が選んだ物になっても、遊園地のアトラクションの列に並んでるときに喋りかけてくるのを振り切って本を読んでいても、彼は私のことを「ほんとに好き」って言う。私みたいな子なかなかいないって言う。会えて良かったって言う。ハグしてって言ったら思ったよりも強く抱きしめてくれる。痛い。私って天才なのかもなって思わしてくれる。好き。

 

 

社会学の先生が、「『本当の恋愛』っていうのは、相手に欲望されることを欲望することだ」って言っていた。「相手を、それ以外の自分の欲望の手段とするのは『本当の恋愛』じゃないんだ。相手自体が目的じゃないとホントノアイと違うんだ」って。

それなら、わたし、『本当の恋愛』をしていない。『偽物の恋愛』してる。彼は私の欲望の手段。手放したくないと思う。恋人でいたいと思う。私が木を倒すのに、こんなに素晴らしい『斧』はなかなか無いと思う。こんな文章を書いても、おもしろいと喜んでくれる。ハグしてくれる、私のめちゃくちゃな主張を冷静に聞いて反論してくれる、疲れたときに話を聞いてお疲れ様と言ってくれる、わかりやすい快楽を与えてくれる、ひねくれずに「好き」だと伝えてくれる。

彼も私のことを目的なんかじゃなくて、手段にしているから、できるんだ。

 

純度100%の恋愛っていうのが、相手から地位とか権力とか社会的要因をそぎ落としていったそのものを愛することだとしたら、何が残りますか。性格とか容姿だって、社会的要因だよね。そうやって一つずつ外していったら最後に残るのは、体だけなんじゃないのかな、

「先生、違いますか?」

人から社会的要因をなくすなんて無理なんじゃないですか。わたしは、そういう、真実の愛っぽいものを信じたいけど見つからない。だから苦しんでいるのに、社会を知りたいと思うのに。

相手の体が欲しい、それだけで良いんじゃないですか。体と言っても、イケメンとか体格がどうとかの話じゃあなくて、ただ、交わるときに感じるもの。

 

ごめんなさい、ほんとうは私にも、欲しい体がある。私のちっぽけな欲望の手段になんてならなくていいから、ずっと、欲しい体であって欲しい。求め続けさせて欲しい。そういう体がある。あなたのことだよ、読んでいますか。

それで、私があなたに欲望されることは、これからさきもう一生無理かもしれないし、そしたらそれはそれでいいかもしれない。ずっとそれを私は夢見ているのだけど、もし、私のことを欲望してくれるときがあるとしたらね。相手を手段にするよりも、相手に欲望されることを欲望することって、ずっと不安定なことだから、結婚して欲しい。相手に欲望されることを欲望し合うなんていう、不安定な関係は、そのままだと、すぐに離れそうで怖いから、法でつなげて欲しい。私と結婚して欲しい。それでバツがついてもかまわないから、だって本当は契約なんてどうでも良いから。

 

お願い、ってこのわたしが頭を下げているんだから少しくらい考えて欲しい。

結婚してよ。

 

 

 

 

わたしは、

わたしは、

不満足な恋よりも、安定した愛をとる。

あのときの一つ一つの大事な言葉よりも、今のわたしを落ち着かせる言葉をとる。

勉強なんかに身が入らなかった体よりも、もっと賢くなりたいという意思をとる。

わたしにだけわかる尊さよりも、みんなにわかる美しさをとる。

愛がなんだという哲学よりも、優しさの形という理論をとる。

境目のない曖昧さよりも、メリハリのある感情をとる。

いやらしい夜よりも、明るい朝をとる。

待っててくれない男よりも、追ってくれる男をとる。

 


昔よりも、今をとる。

お姉ちゃん、と呼びなさい。

今日からあなたは私の弟、かわいいかわいい私の弟。これからは、優しい優しいさくらお姉ちゃん、と呼びなさい。呼び捨てで呼んだら、許さないわよ。呼んでみて。そう、上手じゃない。優しい優しいさくらお姉ちゃんは、かわいいかわいいあなたのことが、大好きよ。キスさせて。お姉ちゃんキモい、なんて言わないで。おかしくなんかないわ。私たち、昔から、こうやってキスしてきたじゃない。兄弟なかよくキスしましょう。背徳感という蜜がかかった唇は、なんて、最高なのかしら。弟に、キスするからって、欲求不満なわけではないですよ。私にフォールインラブする人だったらたくさん居るわ、わたしの方はフォールなんてしないけど、ロープで引っ張ってくれる関西弁の素敵な女友達、もっているから。ただ、単純に、そこに、かわいい唇。その唇があるってゆうのに、我慢できなくなっただけ。ほら、あなたの口もしぼんできた、残ったタピオカ吸い込むみたいに。待ちきれれないのね、口を半開きにさせて。ずるい、あざとい、くりっとした目でこっちを見ないで。いつも、濡れているように見える、女の子の目。その目からこぼれ落ちた水に触れたら、手が勝手におなかにいくの、かろうじて食べることのできそうな柔らかいお肉にありつくの。仕方がないわ。「まずいよ、お姉ちゃん」なんて、言わないで。3桁×3桁のかけ算だって一瞬で計算できる、お姉ちゃんに、全部、任せてみなさいよ。欲求不満を疑わないで、私はいつでも満たされた女。あなたは私のかわいいかわいい弟だから、まだまだ子供のはずだから。え。お姉ちゃんになんて、興奮するはず、ないんでしょ。だったらどうして、そんな慌てるの、慌てたって逃げられないわ。だってあなたは弟だから、お姉ちゃんからは逃げられない。息を吹き込み堪忍袋を広げなさい、堪忍するのよ、絶対よ。それから、「ごめんなさい、もう逃げようとしません」って、言いなさい。そんなに言うなら、許してあげる。せっかくだから、もう一回。仲直りはお口から。目は口ほどにものを言う。口は目ほどにもの見える。お姉ちゃんは、うれしいわ。お姉ちゃん、いつもは自信たっぷりだけど、ほんとは少し不安なの。あなたがかわいすぎるから。黄色い笑い声を響かせる台風に、連れ去られてしまいそう。お願い、どこにも行かないで。ずっと私の腕の中、きっと心地は良いんだから、冒険せずにここに居て。「now or never」と書かれたTシャツの、匂いは逢うたび濃くなってく。どうして最初は、空気と同じ匂いだったのに、今ではそばにいなくたって、その匂いがするのかしら。不思議だわ、きっと、科学者の私のパパだって、解明できない、姉と弟だけのミステリー。そろそろ、ズボンとパンツを脱いで、お姉ちゃんとあなたが本当の兄弟じゃないってこと証明するわ。DNA鑑定?あんなの信用できないわ、北島三郎をかわいいと言う女と同じくらい信用できない。DNA鑑定よりも正確なのは。正確なのは、こうすることよ。

ね、分かったでしょ、お姉ちゃんとあなたは、正真正銘、血がつながってないってこと。今日からあなたは私の男。

台風の目太郎

女が欲しいと言ったって、その女というのは、あの女でなければ、ぼくにとっては駄目なのだ。

 

大学では、わからないことをわからないと素直に言えない男が、「普遍とは何か」について、論理を転がす。自分は少し特別なんだと心の中では叫んでいる女が、平らな胸を張って、スタスタと歩く。

人間はみんな違ってみんな良い、そんな言葉を賢い僕は幼稚園の時から疑っていて、でも、自分が思いついたことと同じことを友達も考えていたら、心臓が冷たく冷えるから、本当は、みんなと違って僕は良い、になりたいんだと思う。

あの女はあまりしゃべらない。話しかけても、少ししか返さない。なぜ、この女が良いのかと言われれば、たぶん、「言い訳」なんだと思う。僕は誰かを好きになれるし、好きになった人に好きになってもらえる、って信じるための。

もし、あの女に点数をつけるなら、45点くらい。100点満点中45点の女でも、会っていないときは苦しいし、会っていると逆にこんなもんかと冷めてしまう。好きって何だろう。僕は結局、みんなと同じでつまらない、に戻ってきてしまう。

ずっと「普遍」について考えている哲学の教授が、「普遍的な好き」について教えてくれないことは分かっている。けど、じゃあ何でずっとそんなこと考えているんだよ意味ないじゃん、と責める気にはなれない。考えれば考えるほど、見せかけの答えが薄くなっていって、目線の移動だけがうまくなっていく。それでいいじゃん、と僕は思う。「夢の中の蝶が実在の自分なのかもしれない」という考え方があることを決して忘れない男たちが、時代を変えてきたんだよ。

 

女が欲しいと言ったって、その女というのは、あの女でなければ、ぼくにとって駄目なのかな。

 

女と寝たい、とぼくは思う。みんなと同じであるぼくは、快楽を求める。と同時に、道徳も求める。

恋人がほかの男と足を絡ませているのを想像しただけで、心臓はぎゅっと握られるし、女友達が彼氏の前では違う表情をすることを思い出すと、目の前の黄色い笑い声が地獄の音楽のように聞こえる。

かわいい女の子は苦手だ。

ぼくは、女が、服を脱ぐときと服を着るとき、トランスフォームするのを知っている。文字通り、化ける。そうだ、処女じゃない女は、もう一つの顔を持っている。誰でも、表では仲良くしてくれている人が、自分の知らないところで自分の悪口を言っていたら怖いだろう。ぼくも、自分の知らないところで自分の知ってる女が違う生物になっているのが怖いんだ。

とくに、彼女を思うと。

彼女は自分のことを少ししか教えてくれないし、もちろん裸だって見せてくれない。あの女、怖い。ぼくは安心したい、と思う。溶け合うような快楽を与えてもらうよりも、恋人という道徳的なつながりによって、ため込んだ不安を射精させてほしいと、思うんだ。

 

いま、あの女は何をしているのだろう。

 

外に出ることができない今日は、太陽の光も見えないし、ずっと夜みたいだ。洗濯機の中に押し込まれた僕たちは、頑丈な家によって守られる。

なんて暇なんだろう。詩集でも読もうか。片付けをしようか。

あの女に、なにしてるの?と送ろうか。

歌舞伎町にあるストリップ劇場『新宿ニューアート』、やばかった。

最近のブログの記事、ラブホ、Tinderに続いて、ストリップショーってくるなんて、皆さん私のこと「やばい女」って思ってるんじゃないかしら。でもそんなことないわ。私、飲み会でやらかしたことだってないし、読書だって大好きだし、髪だって暗めの茶色だし、バイトは家庭教師だし、今月の半分くらいはずっと稲刈りしてるし、英語が苦手だから夏休みは英語精読の本で勉強してるし、家族のことも大好きだし、とてもとても真面目。

毎日、勉強やサークル、真面目にしているからこそ、たまに出会える刺激的なものがたまらなく好き。


先日、ストリップショーに行ってきたの。今回で3回目。今までの2回は渋谷道玄坂にある『道頓堀劇場』に行っていたけど、今回は新宿歌舞伎町にある『新宿ニューアート』ってところに恋人連れて行ってきたわ。

値段は深夜価格で1人3000円でした。


20:30、劇場に入ったら、ちょうど1人目が始まるところ。大音量で鳴る音楽の中、ステージだけが白く光ってた。


1人目はけっこう正統派だった。けっこう美人、綺麗な体。衣装も完全に脱がなかったし、開脚する回数も少なかったからビジュアルで勝負してるなって感じ。隣に座る、ストリップを初めて観る彼にとっては、ちょうどいいスタート。


2人目は、貧乳アイドル。顔も体もとてもロリで、ダンスもキレッキレ。4曲乃木坂メドレーだったので、乃木オタの恋人もすごく喜んでた。

「最後の曲の印象が良かったな。シンクロニシティは衣装が揺れる繊細な感じが重要で、ダンスが上手だからそれがうまく表現できてた!」だそうです。


彼女とは1000円でサイン付きスリーショットを撮ってもらった。

「きゃーーー!!2人はカップル???」

「はい、そうです」

「うわあ、私と写真撮るとカップルは幸せになれるんだよ!」

「えー、ほんとですか?」

「うん、ほんとだよ、撮ろーー!」

カシャッ

「2人の名前は?」

「〇〇です」

「△△です」

「おっけー、〇〇ちゃんね、△△くんって良い名前だね!なんて呼んでるの?」

..........

みたいなやりとりをして撮ってもらった写真はとても素敵。手書きのメッセージとうさぎが可愛い。彼もすごく気に入ってた。


そしてお次は、必ず毎回1人は登場する大人の女。今回は「日本版マリリンモンロー」が登場したわ。網タイツに骸骨の人形、痛そうな鞭、赤いろうそくに火をつけてお客さんに垂らして遊んでいたり、うまい棒を大きな鉄砲に入れて飛ばしたり、まさに彼女のWORLD。大人の女には敵わないわ。いつも楽しみだもの、女王様とか、アメリカンビッチみたいなのとか。

 

4人目は、今回1番びっくり仰天してしまった。なんと、プロジェクションマッピングを使った時代劇パフォーマンス。誇張じゃなく、これはストリップですか??って感じがしてしまった。でも、日本刀をふりかざしながら激しいパフォーマンスをする彼女が最後に脱ぐ、っていうのが楽しみなのがやはりストリップ。


一つ言っておくと、ストリッパーの子ってただ脱げば良いわけじゃなくて、ダンス、世界観、曲線美、体幹と体の柔らかさがないとできないポーズとかが不可欠な、本当にプロのショーマン。

恋人も「これで3000円はとてもお得だって思えてきた......!」と一言。そう、お得なのよ。


5人目は、グラドルか!って思うほどのスタイルの持ち主。ダンスは少し新人っぽかったけど、女の子なら誰でも憧れるスタイル。私も、もしもあんなに細くて長い手足と白くて大きなおっぱいを持っていたならば、ストリップショーに出て、男たちに見せつけてやりたいと、きっと思う。

隣で「あれは、すごすぎるね、足がすごく長いし。ああ、すごい、好き」と言っていて、少し悲しかったけど仕方ない、私が連れてきたんだもの。


あと、どうでも良いけど、新人の曲にセカオワ使われがちだと思うのはわたしだけ?

 

6人目はメルヘンハート系。ハートのぬいぐるみをお客さんに渡して一緒に振りながらダンス。となりのトトロに出てくる葉っぱの傘を持って、ストーリー性のあるメルヘンな踊りをしていて癒し系なのかな。1人女性ファンが付いていて珍しかった。

 

はあ、ストリップにハマってこんなに語ってしまったわ。

つまり、なにがストリップの良いとこかっていうと、

①いつもと違う夜の遊び、背徳感

②ショーとしてもコスパが良い

③女性性と引き換えにお金や精神的安定を手に入れている女の子にわたしは憧れている

 

①②は説明しなくてもそのままなのだけど、わたしの場合③が重要。

今の時代、女の子って、男とも女も関係なく皆が同じ土俵にたって評価されたいという気持ちと、やっぱり女として扱われたいっていう気持ちがごちゃごちゃになって共存してる。勉強とか仕事の能力とかはもちろん、男だからとか女だからとか関係のない対等な土俵で評価されたい。それでも、女なのに数学ができるのすごい!と言われるのも嬉しい気持ちがあるのは否定できない。男の人に女の子として優しく扱われると、まさに「女としての自分が満たされる」という感覚も得る。そのかわりに、自分が男にモテないこととか相手にされないこととか、周りの女の子たちと比べて可愛くないことも、大きなコンプレックスになる。

だから、女性性を男たちに見せつけてお金とか自尊心とか様々なものを手に入れている人を見るととても羨ましい。思いっきり女性性を売ることのできる綺麗な娼婦とかストリッパーの女の子とか人気av女優とかに少し憧れる。わたしには他にも憧れるものがあるからそれを捨ててまでなりたいという気持ちもないし、容姿にたけているわけでもないから、そちらに振り切ることはどうしてもできる気がしないけれど、すごく興味がある。

もっとこういう世界を見たいとも感じる。

 

「行く前は高尚な趣味だと思っていて、行った後に下品な趣味だと気付くのが裁判傍聴、その逆がストリップ」とよく言うけれど、

私とストリップショーに行って「全然エロじゃない!すごく綺麗で面白くて、脱ぎがなくても面白いじゃん!」みたいな高尚な部分なところしか見えない人とか、

私とラブホに行って、「キラキラしてて可愛くて素敵で、楽しい!女子会したい!」みたいないかにもラブホはセックスしなくてもいい場所だというふうに勘違いする鈍感な人がたまにいる。

全然、ストリップに隠されたエロさとか、ラブホがセックスする場所だから魅力的だなんてことに気がつかないの。そういう人は、その場では、素敵〜とか言いながら結局ハマらないから面白くないのよね。

 

それに比べて、けっこう恋人の反応は良かったし「次は、渋谷の行きたい〜!」と言ってたのでまた行くわ。それとも、もうわたし、18人分のストリップ観て、基本的なポーズとか覚えたから家でプチストリップショーでもやろうかしら。

 

冗談よ。

 

 

さくらちゃんの魂不死の証明。

ずっと前から思っていたんだけれど、人間って時間の感じる速度が人によって場面によって年齢によってちがうんじゃないかな。

 

楽しいときは早く過ぎるし、苦しい時間は長く感じる。小学生の時は一年が経つというのはとても大きな時間の流れだったはずなのに、最近の一年は思っていたほど長くはないなとお正月を迎えるたびに感じる。みんなも感じているはず。時間の流れが、ときや場面によって変わることを。

 

もちろん、わたしは正確な時を刻む時計を知っている。ニュートンとか天文学者とかが決めた1秒を基準にわたしは生きている。デートの約束の日や友達との待ち合わせ時間を決めるし、一限が8:30に始まるから頑張って起きなきゃいけない、夜更かしはしてはいけないとか(するけど)。

 

でも、物理的な時間とは別に、物理的じゃない時間が存在するかもしれない。とわたしはずっと前から思っていた。それで、ずっと、といっても四六時中ではないけど、考えていた。もし、物理的じゃない時間が存在するなら何がそこから証明できるか。さっき思いついた。

 

仮定基礎定立

①物理的でない時間がある。

②人間は歳を取るにつれて、時間が早く過ぎるように感じるようになる。

 

この仮定が成り立つなら、こういうことが言えるのではとおもった。

年齢が小さくなるにつれて1秒が遅く感じる。1秒を感じる長さをYとして、年齢をtとおく(生まれた時はt=0)。そうすると、t=0のとき、Yの解はなし。t > 0のときYが存在する。で、Y→∞(t→0)。逆にY→0(t→∞)でYは0に収束する。

こう考えると、赤ちゃんの時は1秒の時間が長すぎるから、その頃の記憶がないのも頷ける。ずっと前からわたしは存在していた。t=0は存在しなくて、生まれるという概念すらないから。

そして、死なない。時間の感じ方は0に収束はするけど、逆にいうと、それは永遠の時間を意味する。

 

分かったかな。分からないかもしれない。でもわたしの中ではピンときた。もしかしたら、もう既出なのかな。教養あるかた、もし既出なら教えていただきたい。

ちょっと、数学の証明、とてもとても苦手で高校の頃数学の先生に「さくらさんは、数学の証明が書けたらなあ。もう言うことなしなのになあ」って言われたくらい書けなかったから(言い訳)

だれか理解して、いい感じに証明してくれないかしら。

 

みんなはどう思う?

 

誕生日が苦手なんだ。

わたしは誕生日が苦手。どうしても自分の嫌な本性に気付いてしまうから。


誕生日になると、どうしても、自分の承認欲求に苦しむ。カーネギーのいうところの「自身の他人に対する重要感への欲求」が湧いてきてしまう。つまり簡単に言うと、無意識に、友達や知り合いが自分の誕生日を覚えていることを期待してしまうし、覚えていることを当たり前みたいな気がしてしまう。それに、誕生日なら自分が主役だろうという気持ちになって、なんだか少しわがままになってしまう。

これは全部無意識で、意識的には「誕生日だからってどうってことない。ただ歳をとっただけだし」と言い聞かせているのに、誕生日に少しでも私にきついことを言ってくる人がいるとムッとしてしまう。

すごく嫌だ。......18、19、20歳にもなって、まだこんな幼稚な部分がわたしにあったんだって毎年思う。

 

いつの頃だろうか、誕生日が苦痛になり始めたのは。たぶん、誕生日に1000円分くらいのプレゼントをあげるという半ば儀式的に行われていたあの小学校時代が終わって、儀式ではなく気持ちで相手の誕生日を祝うようになってからだ。

小学校を卒業してから、こんなに誕生日にぞわぞわとしてしまうようになるなんて。人に祝われるほど好かれている自信がなかったからか。祝われるほどのことを私ができていないのを自覚していたからか。

あの小学生の儀式が大人になっても一生知り合い間で続くか、それか、誕生日なんて、もともと祝うものじゃなければよかったと毎年思う。

 

それに問題は自分の誕生日だけじゃあない。

自分に"祝うべき"誕生日があるせいで、他人の誕生日を素直に祝えない。

仲良い子になら、「おめでとう!」とスルッと言えるけど、プレゼントは渡す気になれない。プレゼントを返して欲しいという下心があるのではと相手に思われたくないから。知り合いくらいの子に誕生日おめでとうという気持ちが湧いても、おめでとうと言えない。そこまで仲良くもないのになんで、って思われたくないから。

どちらも、自分の誕生日の時に、それらの物や言葉を返して欲しいという気持ちが自分の中にあることが否めない。もし、そんな気持ちがなくなったら、気が赴くままにおめでとうと言えるのに、プレゼントもあげられるのに、なんでこんなにひねくれてしまったんだろう。

 


こんなに理不尽な日はない。いつもなら普通なことがこの日だけは、全て不服になる。

誕生日の朝は必ず、いつもより早く目がさめる。

朝少し顔がむくんでいる。先に起きていた妹が朝一で「誕生日おめでとう」と言ってくれない。昨日遅くまで起きていたせいで肌の調子が良くない。水筒の水をこぼした。誕生日なのにバイトがある。仲良い子に今日という日を忘れられている。眠い。親に洗濯物しろと言われる。

そんな普通のことが、とても、普通の日の出来事すぎて嫌なのだ。

普段なら大したことがないことにいちいち気がついて、そんな些細なことに誕生日だからということでイライラしている私自身の幼稚さ気がついて、早くこんな日終わって欲しいな。

 


じゃあどうすればいいんだろうと、考えたけど、もう解決策はない。だって、わたしは誕生日に完璧で特別なことを求めている。誕生日だからって完璧な日が訪れるわけじゃあない。「おめでとう」と言われて「ありがとう、覚えててくれて」と返しながらも心のどこかで当たり前だと思っている気がする。全ての知り合いに「おめでとう」と言われて、恋人に丁寧に祝われたとしても、誕生日は完璧が当たり前だから、それ以下なら嫌な日になる。だからもう、これから私の誕生日は必ず嫌な日なのだ。

 


こう言っておきながら、私は人の誕生日を全然覚えられないってことも、さらに自分を苦しめる。私にとって他人の誕生日はそこまで重要でない。だったら、私の誕生日もそこまで大したことないものだと思えばいいのに、ともう1人のわたしが言う。

どれだけ、自分が自分にとって大切な存在で、他人とは比べ物にならない存在なのか。

 


言葉に表したら、少し楽になった。もう、誕生日は嫌な日だって思えばいいって多少なりとも自分を納得できたから。


もともと、インスタとかTwitter上で、自ら誕生日アピールする人は恥ずかしくないのかとずっと思っていたけれど、今回初めてしてみたらいくらか気が楽になった。みんながわたしの誕生日を覚えているかもしれないという期待を背負わなくてすんだ。みんな覚えてるわけがないんだよなあ、他人の誕生日なんて。覚えている人がいたらそれはすごい人だよ。

 

覚えててくれた人ありがとう、覚えててくれなかった人もこの1年間ありがとう。これからも仲良くして欲しいな。