さくらちゃん教

誰かの言葉に魅せられて離れられない時ってありますか。その人を尊敬し、その考えを尊重しそこに重きを置いて行動した時、それはもう宗教なのかもしれません。

「周りに染まらない自分がかっこいいと思っている」もしくは「オリジナルを必死になってお探し中」の『個性教』の皆さんへ

愛しのさくらちゃんへ


お久しぶり。
今日は、最近私が、周りの人とは一味違った『染まらない自分』になるためにどのようなことをしているのか聞いて欲しくて、それで「偉いね、頑張ってね」って言って欲しくて日記を書くことにしたの。


私ね、自分のことを周りの人間とは少し違った特別な人間だと思っている人がとても苦手なの。そういう風に思っている人を見ると痛々しいと思うし、そういう人が「私、ちょっと変わってるんだよね。」って言うほどあなた変わってないよ普通の人だよ、って言いたくなっちゃうんだよね。だってさ、皆そんなこと言いながら、人と同じようなことを結局したがるし、共感という言葉と感情が大好物だし、矛盾していてダサいもん。
パパがさ、たまに「さくらはほんと変わってるよな。変人って友達によく言われない?」みたいなことをニコニコしながらからかって言ってくる。けど、私は自分のことすごい平均的で普通の人間だと思ってるから、そんな言葉を嬉しそうに言ってるパパが恥ずかしくて仕方ないの。だからいつも、「そんなことないよ、普通だよ。私が変人だったら皆変人になっちゃうじゃん、違うから。」ってすごいむすっとした顔で返事してしまう。そんなの受け流して、「そうかも〜笑」とか言っちゃえばいいのにね......。

でも私も、昔は何も個性や特技のない自分のことを嫌で嫌で仕方ないと思っていた時期があって、大学入ってからは部活に入ってみたり、海外旅行してみたり、プログラミングを少しかじってみたり、でもそれ結局皆がやってる当たり障りのない(価値のあることかどうかは置いといて一回は多くの人が考えそうな)ことなんだよね。もう、さくらちゃん、私のこと”Ms.凡人”って呼んでいいよ。私、いつの日からか、自分が普通の人間であることを開き直ることにしたんだ。
「え、さくらちゃん勉強も運動も平均よりずっと出来るし、絵も字も上手いし、ピアノも初見で弾けるし、アレスの実験でクラス内でやった迷路のタイムも全部ダントツ一位だったじゃん!全然凡人じゃないよ!」
ってどうせここで言うんでしょ。それはどうもありがとう、私もそれについてはそう思うよ。でも、そういうことじゃあないんだ。いくら勉強や運動が出来ても、絵や字が上手でも、ピアノが初見で弾けても私よりその分野で優れている人はもう数え切れないくらい、上を見ても見切れないくらいいるんだ。迷路のタイムだってクラスではダントツ一番だったかもしれないけど、きっと、私より速くゴールにたどり着ける人がいるんだ。それに、そういう長所に負けないくらい、短所だってたくさんあって、例えば、我慢ができなくて痩せられないこととか恋人にすぐ振られてしまうこととか、置き忘れが酷すぎることとか、口が軽いこととか(高校生のとき、シンガポールの修学旅行直後からマーライオンってあだ名つけられてすんごく嫌だった、今でもたまに言われる。しかも修学旅行で行った時、工事中でマーライオン見れなかったのにね!)。

とにかく、私は凡人。そして、そんな自分が嫌で『周りに染まらない自分』を目指そうとしておきながら、周りがやっていて自分がやっていないものを見ると焦りを感じてしまってた。中学生の時、周りにちらほらと彼氏ができ始めて、なんとなく自分も欲しくなったから私と同じように感じていた男子と付き合ってみたり、部活でずっと一緒にいた友達が「京大目指す!」「東工大にしようかな〜」って言うから何も目指していない自分が恥ずかしくなって「私は一応東大って第一志望には書いておいた〜」って言ったりね(いい大学目指さないのも恥ずかしかったけど、明らかにその時点ではE判定の大学を目指すのも恥ずかしかったから濁して言うっていうどうしようもなくダサい私)。
今もある。ちょっと打ち明けるのは恥ずかしいけど、さくらちゃんになら聞いてほしい。今、周りを見渡して焦っているのは、もちろん全く未来が見えない進路のこともそう。そうなんだけど、もっと側近のことで言えば、「ダイエットに成功したことがないこと」と「恋人の親に紹介されたことがない。また、自分が紹介されるような自立した女ではないこと」。どう思う?もしかしたらアホみたいって思うかもしれないけど、私的にはかなり深刻なのよ。

あ〜話が長くなっちゃう。


でもね、最近私気づいたの。私が尊敬しているような真に自分色を持つ大人あるいは染め方を知っている同年代の子たちの共通点に。
それは、
『何もないところから自分の色は見つからない』
ってこと。
自分の考えを言ってくれたり、誰かに対してきちんとした批評ができる人はすごい量の知識を吸収して、そしてそれを自分のものにしている。それは、本であったり授業だったり人との会話だったり自分の行った場所での経験だったり、色々あるけどね。
確かに、自分の部屋でぼーっとYouTubeやTwitter見たり、人と当たり障りのない表面的な会話していても、休息にはなるけれど閃きは無い(たまに感化されるけど確率が低い)。けど、本を読むと一冊だけでも自分の考えがガラッと変わったりして、その本に対する自身の中の肯定的な部分だったり批判的な部分からオリジナルが生まれていく気がするの。人に感化されて、自分の中に良いものや捨てるべきものの概念を取り込んで、私は私のセンスを身につけている。


『周りに染まらず、周りに尊敬されるために、周りに学ぶべき』


近頃、こう思う。だから、私は一旦、虹色を超えて真っ黒に染まりたい。捨てる色を選ぶ過程でセンスは生まれるから


残念なことがあるの。
本や人の書いた文章を読めば読むほど、いろんな考え方とか自分の閃きとかが出てくる。だけど、さらに本を読むと自分の閃きだと思ったことなんて他の誰かがすでに考えているんだよ。それも、これこそ私のオリジナルの考えだ!ってものが、遅くともギリシャ時代にはプラトンが思いついてたりするわけ。それを、私は少し残念だなって思う。でも、少し残念だなとも思うけど、面白いなとも思う。だって、私の考えたことプラトンが考えてたんだよ。他にも、岡本太郎とか上野千鶴子とかが私がメモってたことと同じこと言ってたりすると嬉しくなっちゃう。そういうことってよくあると思わない?これが多くの人が大好きな『共感』なんだ。

でも、多くのファンを抱える人たち、あいみょんとか上野千鶴子もそうだし岡本太郎もそうだけど、自分の色を持っている。(この人たちに色があることはさくらちゃんも『共感』してくれるよね?)多くの人にシンパシーを与え共感させながら、色を持っている。その人を惹きつける色を、彼らが何も無いところから染めることのできた色には見えない。多くをインプットしてアウトプットして、その繰り返しでああいう風になったんだと思う。
だから、私もそれを真似してみようと思うんだ。

人に感化されて真似するところから私のオリジナルは作られていく気がするから




聞いてくれてありがとう、頑張るね。
おやすみなさい。    さくらちゃんより