さくらちゃん教

誰かの言葉に魅せられて離れられない時ってありますか。その人を尊敬し、その考えを尊重しそこに重きを置いて行動した時、それはもう宗教なのかもしれません。

私の彼氏には、好きな女が2人いる。

「友達と恋バナをしたんだけど、友達が『好きな人が二人いるのはおかしい!』って言うんだよ」

「好きな人って、私ともう一人誰かいるってこと?」

「そう。友達は、『彼女のことは大好きなのに他にも好きな人がいる、っていうのは聞いたことが無い』んだって」

「へー。それは、珍しいね。好きな人が何人もいるなんて、たぶん、けっこう普通なことなのにね」

恋人に、突然そんなことを言われて、相手は誰なんだろうと、胸がざわついた。普段の自分が「好きな人が何人もいることを否定する人は、不誠実だ!」なんて、豪語していることを、少しだけ、後悔した。まあ、だいたい想像つくけどね。私は一度だけ、彼の紹介で会ったことのある、小柄で自然な感じの可愛い女の子を思い出した。

なるほどね、好きそうだもんね、ああいう感じの女の子。

そうなんだよねえ。と、頷く彼は私をからかっているわけでもなさそうで、そういう天然なところは全然私のタイプなんかじゃない。もっと考えて、私を嫉妬させようと企むくらいでいなさいよ、そう思うけれど、そうやって怒ったところで、「分かった」と彼は素直に頷いて、その通りにするだけだから困ってしまう。素直で、とっても可愛い。なんだかんだで、いつも、許してしまう。

 

そんな恋人とのセックスはスポーツみたいだな、って思う。つまり、どちらがより、相手を快感に導けるか、っていう競技みたいなもの。例えば、鏡ばりのラブホテルなんかは、私たちのゲームをするには、もってこいのグラウンドだけど、私たちのスポーツはあまりにも楽しくて、快感で、その分とても健全で、だからそれは、私に文章を書かせたりはしないのだ。たとえそこが、私の大好きな場所であったとしても、たとえそれが「恋」「恋愛」と呼ばれる行為の一部であったとしても、私の恋愛ブログには載らない。私に文章を書きたいと思わせるのは、健全なセックスよりも、不健全な散歩だったりするのだ。

 

好きな人が何人もいるのは、意外と当たり前のことなんだ。

だけど、それでも私は、彼のことをたった一人の恋人として、彼も、私のことをたった一人の恋人として、たくさんの時間とお金と愛情を使っている。二人は、まさにカップルっていう事柄を、そつなくこなしている。ディズニーランド、イルミネーション、温泉旅行、記念日のプレゼント、休日にゴロゴロ、散歩、遅刻からの小ケンカ、会えない日の電話、生理がちゃんと来たよ!という報告。それらは全部、周りの人がやっていて、無難で楽しそうだから、私たちもやってみようっていう、ふわふわしていて、わりとラクで、まさに、「小さな幸せ、普通に過ごせるという幸せを大事にしよう」って言うときの、幸せなんだと思う。そんな小さな幸せを、周りがやっていることを試して、二人で協力してつかむことを、楽しんでいる。なんだか、こうやって、なんでも遊んでいるようになっちゃうところもゲームみたいだな、って思う。友達みたいなカップル。悪くないな、って思う。

 

私にも、恋人以外に、もう一人、好きな男がいる。

もうすでに、それは冗談だったのか本気だったのか分からなくなってしまったけど、結婚したいと思う人がいる。

「結婚しようね」

今までに何回、私はこう繰り返しただろうか。

「しないよ、あなたは変な人だね」

「昔、していいって言ったじゃん」

「恋人いるのにそんなこと言って罪悪感ないの?」 

罪悪感?そんなものがあったら、こんな風には言ってない。そう、あるのは、罪悪感なんかじゃなくて、エロさを催す背徳感だけ。エロいこと、大好きだ。罪悪感にまでいってしまったら、全然エロくないから好きじゃない。

「好きな人が何人もいるのは普通なんだよ」

私たちはいつも、並んで歩くとき、とてもくっついている。こういうのを”ゼロ距離”って、いまどきは言うらしい。けれど、どんなに手が触れても、握ることはしないのだ。

そうだね、俺もそうだ。そう言って笑う彼がいとおしい、そう思ってしまった。