さくらちゃん教

誰かの言葉に魅せられて離れられない時ってありますか。その人を尊敬し、その考えを尊重しそこに重きを置いて行動した時、それはもう宗教なのかもしれません。

恋人に依存する”恋人教”の人たちへ


「会いたいから、東大の裏にきて。来るまで、私帰らないから。東大の裏で野宿するから。」



そんなわがままなことを言って、夜中にあの人に自転車を走らせたあの頃はもう戻ってこないのです。

私は、夏の、夜の、東大の裏が大好きでした。東京の空は狭いです。心まで狭くなってしまいそうです。でも、東大の学生会館の裏のベンチに座ると、空はすごく広かったんだ、ということを思い出すことができます。特に夏は綺麗でした。けれど、今行っても、あの時ほど空の広さに感動することはありません。今日も行きました。空は確かに広くて、好きな場所に変わりはなかったけれど、あの、恍惚とした気持ちは蘇らないのでした。
それは、どうしてなのか。あの時は、あの人のことを、考えながら見る空だったからなのか。それとも、夏だったからか。それとも、私がただ単に、そういう気分だったからか。どれも、そうであってそうでないような気がします。
また夏が来たら、蘇るのでしょうか。そんな気はしません。でも、蘇らないことが、残念という気もしません。失うとわかっているものほど、美しく見えます。何回も手に入れることが出来る感情など、わざわざ欲しがったりはしないのです。


もう私は、彼にわがままを言ったりはしません。そんなことをしても、私の気持ちは伝わらないことがわかったからです。
多くの男友達は、私に彼らの彼女の話をするときに、彼女が面倒臭いなどと言ったりします。それが、少し自慢や惚気が入っているにせよ、そう言うのです。彼らがそうやって彼女の話をするときに、私は、皆面倒臭いことが好きなんだな。こと恋愛に関しては、自らめんどくささを求めているように見えて、滑稽に思えます。自分のことを棚に上げて、そうやって思ってしまい、言動にもそれがあらわれるので、たまに、おまえは面倒くさくなさそうだな、と言われます。いくら、私もめんどくさいんだよ、と主張しても聞き入れられないのです。まあ、仕方ないのでしょう。面倒臭いところを見せていませんから、信じられなくてもそうなのでしょう。逆に、面倒臭そうと言われることもあります。でも、本当の私の面倒くささをわかっているのでしょうか。わかっていないような気がします。だって、私と付き合ったことがないのに、面倒臭さなんてわからないはずなのです。他の人には見せていないところまで見せているのです。


そうやって男友達の話を聞いているうちに、彼らは自分の時間が大切だと言うことを主張するのでした。私も、私なんかにとらわれて、自分の時間を確保できず、元々の長所をなくしてしまう人とは付き合いたいと思いません。
だけれども、あの時は、会えないと、不安になりました。この不安は、あの人が私に飽きたのかな、とかそういう不安では無いのです。理由もなく、どうしても会いたい。会わないと、無性に、相手にそのことについてあたってしまいたくなるような、どこへ収まればいいかわからない不安なのです。相手に会うことによってしか、解消されないのでは無いかと思ってしまうのです。でも、理由がわからないと思っていたその不安は、一回離れてしまえば、とても簡単な言葉ですませるものでした。依存、です。

恋をすると、相手に無性に会いたくなるのは当たり前です。恋とはそういうものだと、多くの人は考えます。私もそう考えます。だけど、その状態が続けば、終わりがくるのは目に見えているのです。だから、恋なんじゃあないかと思うのです。
消えてしまいそうな儚いものは、尊いのです。消えてしまった、昔の感情をふと思い出すときほど、尊い時はありません。



今、恋人に二週間ほど会っていません。会っていないどころか、LINEも電話もあまりしません。私は暇ですし、いろんな無駄なことを考えるので、それを彼に話したいと思うのですが、どうも、その時間は取れないようです。会う予定だったのに会えなかった時、無理して会いに来なくていいよと言われた時、その時に感じた脱力感は確かなものでした。あーあ、と落ち込むのでした。それでも、全然、鬱になりそうな気配もなければ、怒りがこみ上げてくることも、あまり無いのです。全く無いと言ったら嘘になりますが、感情が前と比べて全く激しく無いのです。困りました。これは、恋が冷めてしまったんじゃあ無いか、と。まだ、二人の時間を共有し始めて、あまり時間も経っていないのに。

でも、夜になると不思議と無性に会いたくなってしまうのです。性欲なんじゃない?と彼は言いました。確かにそうかもしれません、夜は不思議です。自分が違う人物になってしまったように感じ、時々怖くなります。昼とは、違う気分になる自分を、慈しむこともあります。夜に会いたくなってしまった気分を封じ込めるために、本を読むか、文章を書くか、早く寝ます。どれも効果的です。朝になったら、恋人なんて別にいらないや、と私はけろっと起き上がることを知っているので、寝るのが一番効果的かもしれません。



以前の、昼でも、無性に会いたい、という気持ちを抑えられなかった私は、一体なんだったのでしょう。依存とは怖いものです。人格を変えてしまいます。私に眠る、別の人格を引き出しました。人は、いとも簡単に依存してしまうことを、私はあの人に学びました。そして、そこから抜け出すのが、どれほど大変かということも。きっと、私はこの先、ドラッグやタバコに手を出すことはしないでしょう。だって、依存したら引き返せなくなるのを学んでしまったから。私は学習能力の高い子です。同じ失敗は繰り返しません。とか、言っていても依存してしまうのが人間だということを、今回学びました。全く、学ぶことが多くて大変です。でも、世の中に学ぶことがべらぼうに多いことは、そこまで悪い気もしません。

今回、私が学んだのは、私は依存しなくても大丈夫だということです。恋人に、依存しなくてもやっていけるのです。そう、彼が教えてくれたのです。彼といると、自分が魅力的な人物だと錯覚してしまうのです。自分も、親も、友達も気づかなかった私の長所を褒めてくれるのです。そのおかげで、一人でも不安を感じません。むしろ、一人でいる時の時間を慈しむすべを、たくさん身につけました。想像力がつきました。私は、自分の想像力のおかげで退屈することはなくなってしまいました。そして、会わない時間にこそ、その想像力が発揮されて、どんどん彼に引き込まれていくのです。会わない時間を慈しむことができる自分のことを、私はいま気に入っています。

彼に前と同じような仕方で、依存することはないでしょう。もし、この先私が依存していたら、思う存分笑ってくれても構わないのです。私は気にしません。もう一度、学び直せばいいだけの話ですから。



こうやって、大人になっていくんじゃあないかと思うのです。わがままをいう私は、子供でした。でも、あのわがままは、いまでは笑える思い出なのです。あの人も、もうあんなことは一生ない気がする、と笑います。それはそうです。夜中に、親に言わずに勝手に家を抜け出し、自転車を走らせて東大の裏に向かうことがあるはずがありません。

過ぎ去った思い出は、大切にして、どんどん学んでいきたいと、私は思うのでした。