さくらちゃん教

誰かの言葉に魅せられて離れられない時ってありますか。その人を尊敬し、その考えを尊重しそこに重きを置いて行動した時、それはもう宗教なのかもしれません。

世界で最も可哀想な、惚気。

「彼が好きすぎてつらい。」
「会えなくて寂しい。」
こう嘆いたことはありますか。


私は惚気が好きではありません。今までだって惚気を垂れ流したことは一度もありません。いや、惚気まくっているだろうと思った方もいるでしょう。違います。私が今まで話したり書いたりしてきた、一見、惚気に聞こえるものは全て「自己憐憫」なのです。
惚気というのは、いい気になって自分の夫や恋人について話すことでしょう。私はいい気になってなどいません。真反対なのです。


突然ですが、私が本当に好きな人とは誰でしょう。



ある日、恋人と映画に行きました。映画は面白いものでした。私は今まで、とてもつまらないなと思った映画に映画館で出会ったことはありませんでした。でも、終わった直後に、感想を上手に言うことは難しいことでした。私は、人よりもずっとずっと一人で考え事をしていますが、考えをまとめるスピードは遅いのです。


「死にたくないと思った。」


とりあえず私に言える感想はこれだけでした。一言でまとめるとこうなります。
面白い映画を見ました。また、二人で映画を見にきたいと思いました。でも別に映画ではなくても二人で行ければどこでもいいと思いました。死ぬまで一緒にいれたらいいと思いました。でも、死んだら二人で一緒に映画を見ることはできないんだと思いました。
そしたら、なんだか、切なくなって笑えてきました。


私には、今まで、出会った男の人に対して、一緒にいると死にたくないと感じてしまう人が二人いました。友達と一緒にいても死にたくないなと思いませんし、他に好きだと思ったことのある男の人に対しても、一緒にいるからといって「死にたくないな。」という文字が頭に浮かぶことはありませんでした。


その人は言いました。

「死にたくないと思うのは、相手に対して永遠を考えるからじゃないかな。永遠が見えると死が見えるからね。友達が自分が何かをするための手段なのに比べて、恋人は恋人自体が目的のように思える。だから、恋人とはできればずっといっしょにいたいと感じるし、始まりと終わりがあるんじゃない?」

その人は私の好きな人であり、実際に私の目的でもありました。



ある日、ある心無い人は言いました。「1人と付き合う期間が短くない?」と。

長く付き合うために、私は恋人と付き合っているわけではありません。でも、長く付き合っているカップルを羨ましいと思います。好きな人と長い時間を共有できているとしたら、それはとても素敵なことのように思えるからです。
私だってできれば、恋人ともっと昔に出会って同じ時間を共有できていたらとか、この先も終わらなければいいと思うんです。

でも、どちらかが好きでなくなったり、一緒にいたくないと感じてしまったら仕方がない。冷めた上で、ただ漠然と付き合いを続けていられるたちではありません。

人の考えはわかりません。私は衝撃を受けたことが何回かあります。今自分のことがとても好きそうに見える恋人も、惰性で付き合いたくないからという理由で私のことを3ヶ月後に一回振ろうという計画を企てていることを知ってしまいました。彼のスマホのカレンダーに書いてありました。「(私と)付き合いを続けるか考える」と。(もちろん、勝手にみたわけではないですよ。)

たとえ、付き合う期間が短かったとしても、本当に好きになったと言える人はいます。付き合いは短くても、周りのどんなに長く付き合っているカップルより、私は確かに、永遠を意識した人がいました。



私の惚気のようなものは、永遠を見据えて自分を可哀想だと哀れんでいる一種の自己陶酔です。ただ、幸せを噛み締めているわけではありません。
それに加えて、先のことばかり考えて、今の幸せを純粋に楽しめない私のことも私は哀れみ、そして同情します。あらゆる人からの同情を受け付けたくない私も、自分が自分に同情することだけは許すのです。




永遠を考えた人を簡単に忘れることはできません。
クスリに手を出した依存症の人たちのように、病状が回復した今もなお、私もその人のことは忘れません。彼が私に触れるとき気に染む快楽をもたらすとともに、彼の手が離れたとき心はどうしようもなく疼くのです。

本当は、私が彼のクスリになりたかった。