さくらちゃん教

誰かの言葉に魅せられて離れられない時ってありますか。その人を尊敬し、その考えを尊重しそこに重きを置いて行動した時、それはもう宗教なのかもしれません。

恐ろしく男ウケの悪い、山田詠美にどハマりしている、”えいみー教”の私から最近のSNSについて一言

前置きがすごく長いのですが、後の方が重要です。

彼女の文章に初めて出会ったのは、小学生の時のサピックスの教室でした。国語の文章題として出てきました。あのとき出てきたのは、『風葬の教室』という小説の一節でした。読んだ瞬間から、どうしても続きが知りたいと私は思いました。
けれど、解説の時に、国語の先生は言ったのです。
「俺は、この人の文章、あまり好きじゃないんだよな。なんか、この主人公と本人が似たような感じで。」
確か、この細身の男の若い先生は、よく怒鳴り散らしていて、元気な先生だったと記憶しています。一回、男子生徒のエナメルバックを教室のドアに投げつけた時は、かなり驚いたのを覚えています。
そんな、思い出話はどうでもいいのですが、私が彼女の文章に惹き込まれた直後に、その先生はそんなことを言ったのです。彼女の文章の良さがわからないなんて、かわいそうだな、と思いました。まだ、その一節しか読んだこともないのに、生意気にもそう思いました。しかも、私は、その文章題の答えもほとんど間違っていたのにも関わらずです。
その後、『風葬の教室』は本屋で見つけて買いました。もう一度だけ、サピックスで『放課後の音符』という小説も文章題として出てきて、それも買いました。私が中学受験の時の文章題で読み、続きが気になり購入までした本は、その二冊と伊坂幸太郎の『マリオネットの罠』だけでした。

中高では彼女の本に対する熱はさめ、もう一度再燃したのは、大学に入り失恋した時でした。誕生日の朝に振られたので、その日は誕生日とは嘘だったかのように、一日中ナーバスでした。ずっとベッドに潜っているのも飽きて、本棚に向かいました。そこで、選んだのが、小学生の時に読んだままだった『放課後の音符』でした。この本は、彼女の小説の中ではポピュラーな方で、かなり読みやすい本だと思います。もし、彼女の本を読んでみたいと思うなら、この本から読むのをお勧めします。これ以外は、ちょっと強すぎるので。
『放課後の音符』を読んだ私はというと、大泣きしました。何が何だかわかりませんが、とにかく大泣きしました。泣いたのは、彼女の本のせいではなかったかもしれないけれど、そのあと、彼女の本をブックオフに行って5.6冊買いあさり、一気に読んだら心が少し落ち着きました。
そこから、どハマりしてしまうのでした。とにかく、恋愛をするときは彼女の恋愛観に、文章を書くときは彼女の文体に、影響されてしまいました。彼女の本にハズレはありません。数えたところ、思い出せるだけで、20冊読みましたが、どれもこれも読むたびに、ため息をつかされます。

彼女はなんとも小説っぽいと言ったらいいのでしょうか、純文学っぽい文章を書きます。純文学だから当たり前かもしれないけど。彼女の文章は、私を飲み込んでしまいます。読んでいる間と、読み終わった後の少しの間、私の思考は持ってかれてしまいます。
描かれた出来事全てに、ぼんやりとした情景が思い浮かびますが、それは決してはっきりしたものにはなりません。その、霧がかかったような感じが、小説感を漂わせます。彼女がよく使う言葉ですが、まさに「恍惚」という感じです。
だけれども、決してそれは現実と遠くはありません。遠く見せかけて、近い。そこが私の好きなところです。しかも、近いけれども、私と同じ立場にありません。いつも先輩風を吹かせ、少し先を行っていて、私を急きたてます。私は追いつこうとして、追いかけます。もう逃れられません。その、逃れられなさが、たまらないのです。

私は、特に、読書が好きだというわけではないのですが、山田詠美の本だけは大好きです。
忙しいときって、全てのものが面白く見えて、暇になったらあれをやろう、これをやろう、とやる気が出てきます。しかし、いざ暇になっても、そうは行きません。
なんも予定がない日など、後にやらなきゃいけないことがあっても、何もやる気が起きません。それどころか、忙しい時に見たいと思っていた映画や積み上げていた本を読む気も起きなかったりします。それでも、彼女の本だけは読む気になるのです。

しかし、問題があります。それは、彼女の本が好きだという人が私の周りに一切いないことです。むしろ、嫌われているのではないかと思います。特に男性には。私は、恋人にも読ませましたが、うーん、というなんとも微妙な反応でした。私は、一人でいいから、誰かと山田詠美について語り合ってみたいのです。
でも、サピの国語の先生もそうですが、彼らが山田詠美の文章が苦手なのが、少しわかります。彼女はあまりにも一般的な価値観とずれているような気がします。日本人の男の好みを全く無視しています。しかも、自分の価値観がはっきりしすぎていて自分と違う価値観の人も、はっきり切り捨てます。だから嫌われるのです。
彼女自身も、エッセイで、「私の本を愛してくれる方々は、ほとんどが女性(と、ゲイ)なのだが......」と語っているように、男の人には受け入れにくいのは事実のようです。
それでも、私は彼女を推します。それは、彼女はとてつもなくかっこいいからです。
たまに、本を読んで感銘を受け、それを他の人に、「この人の考え方がすごいんだ。」とか、「この本、素晴らしすぎる。」と興奮して話すことがあります。そんな時に、その考え方を全部肯定してるの?、とか聞いてくる人がいますが、そんなわけあると思いますか。全て、肯定、共感することがあると思いますか。
もちろん、ありません。私は、その本の考え方に感銘は受けたり、一部に強烈な共感を抱くことはあっても、全てに共感することなどないです。
むしろ、山田詠美の本に共感するところなど、ほとんどないのです。
彼女のいういい男を私はいい男だって思ったりすることもないですし、彼女は美人で都会っ子だからか、ブスと田舎者を見下した発言を臆せずに言いますが、私にはそんな発言できません。ですが、共感せずとも、その独特な感性を、多くの人々に伝えるすべを持っている彼女を、すごくすごくかっこいいと感じるのです。

私が思うに、最近のSNSは”共感”がテーマなようです。確かに、ツイッターでバズっているものは多くの共感を得たものが多いようですし、インスタでいいねが多くつくものは、多くの人がいいね!と思ったからそうなるのです。私だって、ああなるほど、と共感をしたツイートにはファボりますし、楽しそうであったり綺麗な写真にいいねを押します。けれども、共感ばっかりしているSNSに嫌気がさすことがたまにあります。
例えば、ツイッターで「メンヘラ女の特徴」とか言って、女の人が恋をしたらなりそうな状態をいくつか連ねて書き、バズっているものが流れてきたりします。もう、うんざりです。何がしたいのでしょう。きっとバズるためだけにやっているのです。
「共感」というのは、コミュニケーションとしてとても使いやすい手段だとは思うのですが、なんだか安っぽいのです。
その点、山田詠美は、性欲を正当化してセックスをとても素晴らしいもののように書きますし、タバコをかっこよく書きますし、夜遊びをしていて何人もの男を落とせる色気のある女を最上級でいい女として書きます。ほとんどの人は、共感しないはずです。私がこんな風に書くと、もっと嫌われないか心配ですが、彼女の一貫した感性は、彼女の手によって生き生きと描かれ、私を感嘆させ、ため息をつかざるを得ない状況にさせるのです。
きっと、彼女のファンは彼女の感性に共感しているというよりも、彼女の人生の見方が、あまりにも素敵すぎるから、彼女のことが好きなんだと思います。

違う価値観を持っていても、そこに惹き合うというコミュニケーションの方が私は好きです。メンヘラ女あるあるをツイートするような人よりも、私な嫌いなもの、と言って他の人には好かれているであろうものを、どおーんとツイートしてしまう人の方がかっこいいと思ってしまいます。
もっと、共感とかではなくて、むしろ共感とは正反対のことをツイートして、かっこよさでいいねを獲得する人は、これから増えないでしょうか。

このままだと、つまんない世の中。