さくらちゃん教

誰かの言葉に魅せられて離れられない時ってありますか。その人を尊敬し、その考えを尊重しそこに重きを置いて行動した時、それはもう宗教なのかもしれません。

私のための宗教

さくらちゃん教は、私の私による私のための宗教です。他の誰のものでもありません。だからと言って、他の人が入教するのを拒むわけではありませんが来るもの拒まず去るもの追わずです。私がこの宗教を作ろうと思ったきっかけはいくつかありますが、一番大きい理由はやはり自分を見失っている私が頭を整理するためと言えるかもしれません。このブログを手段として開宗いたしましたが、ブログを書くに連れてどんどんわけがわからなくなっているのは私自身も認めております。しかし、書かざるを得ないのです。
この、「人が生きるということ=人生」に疑問を持った身として、どこかその疑問を解消してくれる宗教はないかと一度どこかの宗教に入ることを考えましたが、なかなか私の納得のいく答えを提示してくださる宗教は見つからないのです。

そんな時、私は閃きました。自分で宗教を作ればいいのだと。私の考えは、今までの私の人生に登場してきた多種多様な人たちの影響によって形成されています。私だけでなく、どんな人も、その人に関わってきた多種多様な人物によって形成されており、誰一人として完全に同じ考えや人生への意味を持つ人などいないのです。当たり前なのです。だから、私が私のためだけの宗教を作ってもいいわけですし、さらにいうと、その私だけの宗教を覗いてみて少しでも影響を受ける人がいてもいいわけです。

この度私は教祖になりました。よろしくお願いします、私。


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〈さくらちゃん教法〉

自分のことをブスと言わない、思わない。



表現をし続ける。



好きな人に好きという。好きにならせる。



生死に疑問を持ちながらも、とりあえず人生をぶっ倒す努力をする。
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<自分のことをブスと言わない、思わない。>
私の嫌いなものの一つに、「どんな人でも、どんな女性でも皆美しいのよ。」という言葉があります。そんな詭弁は大嫌いなのです。もっとまともなことを言って欲しいのです。「どんな人でも、どんな女性でも皆美しいと自分で信じ込んでいた方がいいことの方が多いのよ。」私ならこう言います。もしかしたら本当に皆美しさを持っているかもしれません。しかし、それが外見にわかりやすく現れているかどうかは個人差があるように思います。「人を外見で判断するな。」とか、「ブスすぎてつらい。」と簡単にいう女性は皆自分のことを少なくとも平均よりは美しいと自覚しているから言えていることに、皆さんお気づきでしょうか。自分を本当にブスだと思っていて、ブスであるからこそ外見で損をしていると実感している方々は、そんなことを簡単に口に出せないのです。強者が弱者に同情して言葉を発しています。同情は嫌いなのです。同情されたくないからこそ、私は自分がいくら一般的な価値観から考えてブスだろうと自分のことをブスと言わないことをここに決意致します。


<表現をし続ける。>
私は地球上全ての人をすごいと思っています。なぜなら、私が考えたことのないようなことを、絶対に考えているからです。自分でできない発想をできる人を尊敬致します。しかし、しかしです、いくらすごいことや新しい発想を持っていてもそれを表現できなかったら意味がないのです。その人の中だけではすごいことかもしれないけど、それが外に世の中に出ることはないのです。五体満足の人たちには、言葉があります。音楽があります。手足があります。味覚があります。表現の仕方はそこら中に広がっているのです。私は、まだ自分がすごいことを考えているとは思っていませんが、いつかすごいことを考えたときのために、そのときそれを周りに知ってもらうために、表現する練習をしようと思うのです。文章もその一環です。頑張ろうと思います。


<好きな人に好きという。好きにならせる。>
好きな人に、好きと言えない世の中は間違っていると思います。自分には恋人がいるから他の人には好きと言えない。相手には妻がいるから、彼に恋はできない。勇気がなくて、伝えられない。くそくらえなのです。いくらでも好きと言って良くないでしょうか。好きな人に好きと言えないのはどうしてなのでしょうか。私は本当にこの文化、社会、小学校で教えられた倫理に沿って、生きていく必要があるのでしょうか。もっと、本能に忠実に生きてはいけないのでしょうか。リズムの良い音楽を聴いて自然と体が揺れるように、好きだと思った人に自然と体を寄せたいのです。


<生死に疑問を持ちながらも、とりあえず人生をぶっ倒す努力をする。>
最後の宗教法は、諦めの塊です。ついに、私はこの暇で仕方のない一年をかけて考えても、なぜ私がここに生きているのか、そして死んでいくのかの答えを見つけることができませんでした。本当に不甲斐ないと思っています。だから、とりあえず諦めて人生というフィールドにおいて前に進もうと思うのです。皆さんがやっているように、前を向くこと、幸せになること、そして何があっても生きてくことを目標として頑張っていこうと思いました。だからといって、生死について考えることをやめるわけではありませんが、それを理由にして人生を進もうとすることを躊躇する言い訳としないようにします。





だんだんと酔いがさめてきました。ありがとうございました。