さくらちゃん教

誰かの言葉に魅せられて離れられない時ってありますか。その人を尊敬し、その考えを尊重しそこに重きを置いて行動した時、それはもう宗教なのかもしれません。

東大に入って途方にくれた話

はぁー、と無意識に私が深いため息をつくとママが
どうしたの、ため息なんてついちゃって。
と話しかけてきた。
あ、ため息なんかついちゃってた、とか思いながら、
私って傲慢なのかなって思って。
と返した。
え、そんなの前からみんな知ってるけど!もしかして気づいてなかったの?
なんて失礼な人だ。私は自分が傲慢かどうかで無意識にため息をつくほど真剣に悩んでいたというのに。そのあと、書いていた小説が12000字までいったところで、なぜか消えてしまい、まさに泣きっ面に蜂で涙が出たものだ。


私、自分がプライド低いだなんて思っていた。だけど違ったんだなって最近は思うようになった。どうしても、人ができるのに私ができないことに敏感に反応してしまう。本当は、その羨ましいと思う気持ちを相手に示して仲良くしたり、バネにして頑張ったらいいのかもしれないけど、なぜだか私の場合は開き直ってしまう。もちろん、オリンピック選手になったり、人気女優になれないことを諦めるのは仕方ないのかもしれない。けれど、身近にいる周りの人たちと比べて、企業とか留学とかプログラミングとかそれこそブログとか私にはできないし、別にできなくてもいまの暇のままで楽しいんだって開き直るくせがついてしまった。
それも、東大に入ってからなんじゃあないかと思う。
高校の時は、それなりに勉強も運動もできたし、友達もたくさんいて土日に予定がない時はなかったと思う。周りに劣等感を感じるとしても、それは、克服しようと気合いが入るくらいには目に見えているわかりやすいものだった。例えば、模試の成績とか、部活でスタメンになるとか。わかりやすい克服は私にはできたから、なんだかんだ東大にも入れたし、部活でスタメンにもなれたんだと思う。人の能力を測るベクトルが数少なかった。分かり易かった。今考えるとなんて単純なルールの中で、私は上位にいて満足できていたんだと思う。

東大に入った。周りにはすごい人がたくさんいる。そんなことは入る前からわかっていたし、そんな環境にいられることがいいことだって思っていた。自分もそんな人と関わっていけたら面白いだろうなって思っていた。
でも、結論から言うと、私は本当に関わっていただけだなと思う。
周りにすごい人が現れるたびに、その人のことを尊敬し、そして自分には関係のないことだと思って、彼ら彼女らができることが自分にはできないことだと諦め開き直る。私には、そんなことをせずとも暇な方が楽しいはず、と毎日が忙しい人たちを少し見下してさえいた。そんなことを繰り返すうちに、他のことも開き直るくせがついてしまった。
特に、恋愛に関しては、やっぱり東大に入ると男の方が格段に多いから少しばかりモテる。それに勘違いして、クズな女のすることばっかりしてきた。私は思う。私がもし男で、いまの私に関わったら、女性不信になるんじゃあないかと。でも、私には開き直るくせがついているから、自分が好きだと思ったように動く、とか本能に忠実に、とかなんとか屁理屈を言って自分を自分の中だけで正当化してきた。東大に入るくらいには頭がいいから、その屁理屈も高度で誰も手がつけられなかったと思う。
パパ活なんかにも手を出した。手を出した当初の私は、お金がもらえて美味しいご飯も食べられて興味深い話も聞ける。なんて素晴らしいでしょう、と友達に少し自慢していたりしていた。実際、慎重に選んだ相手は、とてもいい人だったから思っていた通り進んだけど、お台場のホテルの30階のレストランでおじさんと18000円のコースを食べている時の、あまりの虚しさにすぐに辞めてしまった。あまりにもその料理が美味しすぎて、あまりにも虚しすぎた。今思うと、無理して自分を正当化しすぎて耐えられなくなったんじゃあないかと思う。

友達はそんな私のことを面白いとか言ってくれたりしたけど、きっと誰も私みたいにはなりたくないと思っているだろう。そう気づくと、こんな私でも傷ついてしまうのだ。

結局、プライドの低いと思っていた私は、人一倍プライドが高かった。だからこそ、開き直ることで傷つかないように傷つかないようにしていた。あほだよね。でも、今、こう書いている私は、自分の傲慢さに涙することはあるけれど、自分を正当化するたびに生じる虚しさは感じない。

こういう風に考えるようにしてくれたのは、やっぱりいまの好きな人だと思う。彼のすごさは、いまは書ききれないから省略するけど。
そもそも文章を書くようになったのは、彼の文章に感化されたことと、彼が、書きな。とか、才能あるよ。とか誰も私に言わなかったであろうことを言ってくれて、単純な私はそれに流されてしまったからだ。
彼もすごい人だ。すごい、というチープな形容詞しか、それを表現する短い単語を知らない私の語彙力のなさは彼に申し訳ない。が、今言いたいのは、私は付き合う男にすごい男を選びがち、ということだ。もちろんこの、すごい、は私の中ですごいと思った人だから客観的にはわからないが、皆もすごい人は好きだと思う。
だけど、そのせいで、たまにその人のことがどうしようもなく羨ましくて、隣にいるのが辛い時がある。そんな時、私は、すごい人と付き合って満足しようという魂胆が私の中に眠っていることに気づく。ああ、せっかく彼に出会って、開き直ることを強さだと勘違いしている自分に気づいたのに、まだ私はそんなことをしようとしているのか、と悲しくなる。
ちょっと、彼のことを大げさに書きすぎたかもしれない。
とにかく、そうやってまだまだ未熟な私だけど、こうやって文章を書くことでちょっとは自分の弱さに抵抗しようとしているのだ。