さくらちゃん教

誰かの言葉に魅せられて離れられない時ってありますか。その人を尊敬し、その考えを尊重しそこに重きを置いて行動した時、それはもう宗教なのかもしれません。

一番はじめの記憶を思い出したい。

 

さくらちゃんへ

 

今日は、一日中、前世の記憶を思い出そうとしていました。

こういうことをしようと思った経緯をまずお話ししたいと思うのですが、実は昨日、ある人とけんかをしてしまいました。さくらちゃんなら相手が誰かは察することはできると思うので、あえてここでは誰かというのを書かないことにします。それで、なんでけんかをしてしまったかというとですね、約束を破られてしまったんです。私にとってはとても楽しみにしていて、大事な約束だったのに相手にとってはそうでもなかったみたいです。こういうことは往々にしてあります。それはそうです。自分にとって大切なことと相手にとって大切なことというのは違いますから。だから、そのときは必ず果たそうと思ったのかも解りませんが、結局のところその約束は果たす未来がたたれてしまったわけです。こういうときは怒ったら良いのでしょうか。私はその人に、「いくらでも怒ってくれ、聞くから、殴ってくれても良いよ」と言われました。困りました。私が怒ることで気が晴れると思ったのでしょうか。私はそんな感情に傾いた馬鹿な女ではありません。その人に対して、怒ったり怒鳴ったり殴ったりすることで、全くもって気持ちが落ち着くとは思えません。そんなことよりよっぽど、なぜその約束が果たされないのかを説明してもらったり、その謝罪の気持ちを行動に変えたりすることのほうが、私は納得し、気持ちが落ち着くというものです。しかし、悲しいことに説明はどうしようもないものでした。ここで、なぜどうしようもないかということを説明するために、どういった約束が破られてしまったかを白状してしまいますと、それは「ある場所に行く」という約束でした。それはそれは楽しみにしていたわけで、この約束を破るとはどんな理由かと思いましたら、いかにも、単純な理由だったのです。「他に一緒に行きたい人がいる」というものでした。そう言われたら、もうこちらとしてはどうやって返して良いか解りません。つまり、「他に一緒に行きたい人がいる」からどうしても私と行けないということが、曲げられないというのなら、もう怒る気力も失ってしまいます。そんなことを考えながら、やるせなくなり、涙を流していたら、その人は「怒って、もっと怒って!それだけ?殴っても良いんだよ」と執拗に言ってきます。怒り文句を考えたり、怒ったように言葉を発することはとてもエネルギーがいることでしたが、私はその人が怒って欲しい気持ちも分かってしまいました。それというのも、やはり好きな人には嫉妬されたいのです。私も好きな人に嫉妬されないときは、思っていたのと違うと思い、かなり焦ります。嫉妬で愛を確かめるなんてやり方、幼稚だと思いますか。私もそう思いますが、なんと20歳になった今でもそんなやり方から私たちは抜け出せていないのです。そんなこんなで共感し、怒ったふりをしてしまった私は、今から思うと相手の思うつぼですが、怒って、そして顔を殴ってしまいました。もちろん、これまで、人の顔を殴るなんてことをしたことはなかったので、それはそれはショックで、私は自分の胸に殴った力以上の力でパンチされたようでした。謝りましたが、「いいんだよ」とその人は繰り返しました。その人にとっては私に殴られて「いいん」でしょう。でも私にとっては「いいん」くありません。その時はいくら相手がして欲しかったとはいえ、殴ってしまったという罪悪感で目からあふれる涙が止まりませんでしたが、今思うと、後悔が押し寄せてきます。怒らなければ良かった。「あなたはヒステリーを起こさないね」と言われ、「だってこういうとき誰に怒るの?あなたが一緒に行きたいと思った人に?それともそういう心変わりをしてしまったあなたに?それは仕方の無いことで、違うんじゃない?怒るなら神に怒りたいけれど、私は神とまだ知り合いじゃないのよ」と返すいつもの調子のまま、怒らなければ良かった。

そんな後悔が押し寄せてくると、私は本当に死にたくなってきました。自殺とは、勇気のいることかもしれませんが、私のその時死にたかった気持ちと自殺した人の死にたい気持ちが、それほど違っているようには思えないのです。違いと言えば周りの環境では無いかと思います。これからまだやり残したこと希望の量や、死ぬと考えたときに浮かぶ人の表情、そんな少しの環境の差だと思います。私には死ぬ勇気が無かったのです。リストカットをするというアピール的なことも考えましたが、リストカットほどダサいことはありません。自分で死ぬ、というすごいことを仄めかすような真似は私にはできません。「死にたい」と口にすることと、リストカットすることもそれほど気持ち自体には差があるとは思えませんが、差があると言えば、それを見る周りの人へのアピールの度合いです。私がここで死にたいと言ったところでどうせ真剣に取り合う人などいないのです。だからこそ、死にたい気持ちは一緒でも、わたしは安心してリストカットほどダサいことだと思わずに、「死にたい」と言えるのです。

死んだらどこへ行くのだろう。こんな問いを東大の哲学の授業で出したら嘲笑されることでしょう。少なくとも、教授には相手にされないでしょう。ちょうど、社会学のディスカッションの場で遺伝や本能について口にするのと同じことです。そんな議論の余地をなくしてしまうようなことを言ってはいけないのです。学問の場ではそうです。学問というものを偏った思考だと批判しているように捉えられるかもしれませんが、そういうわけではありません。真剣に学問をやっているからこそ、そんなのわかっていて議論の余地のあることを話しているんだよ!という彼らの心の叫びが聞こえます。それでも考えてしまうのが、死んだらどこへ行くのだろう、という問いです。もはやこれは哲学という学問ではないのかもしれません。たくさん考えます。しかし、私が死ぬのは未来に起こることです。未来に起こる些細なことさえ完全に予測できるわけではない私たちがどうして死んだあとのことを予測できるでしょうか。私は生まれる前のことを思い出した方が、よっぽど現実的だと思ったのです。過去のことだったらもう起こった事実というのはあるのだから頑張れば思い出せるかもしれない。

そんなこんなで、長くなりましたが、前世を思い出そうとしたのです。

結果はどうだったか。前世は思い出せませんでした。とにかく一番最初の記憶は何だろうと必死に思い出そうとしたのですが、それは、3歳か4歳のときに、同じ保育園の男の子と「しょうらいは、けっこんしようね!」と言い合って両手をつないでいるときの記憶でした。今ではその男の子はInstagramでつながっているだけで、何年も話しても会ってもいませんが。とにかく、0歳や1,2歳の記憶はありませんでした。生まれた直後の記憶はきれいさっぱり消去されているのです。何という完璧さ。きっと生まれる前の記憶が残っていたら何かまずいことでもあるのでしょうか。全く隙の無い私たちの生命。まあ最初からそこまで期待していたわけではありませんでしたが、私はもっと大変なことに気がつきました。私は一年前のことでさえも余り正確に思い出せないのです。大事だった思い出でさえも、メモに残した少しの記述以外のことが思い出せません。事実自体や大体の感情は思い出せてもぼんやりしているのです。夢のように感じるのです。あの頃のことをはっきりと覚えているという言葉を使う人もいますが、それは本当にはっきりなのでしょうか。あたまの中で浮かぶ絵がはっきり写っていたとしても、どこかぼんやりしているような、そこにいる人の顔がまるで作り物のような感じがします。私は死ぬときに、またすっかり私として生きたことを忘れるようにできているのでしょうか。それでもいいのかもしれません。ただ、それも少し残念な気がしたので、今日ここに今日思ったことを記しておきたいと思います。

おやすみなさい、さくらちゃん。

 

さくらちゃんより