さくらちゃん教

誰かの言葉に魅せられて離れられない時ってありますか。その人を尊敬し、その考えを尊重しそこに重きを置いて行動した時、それはもう宗教なのかもしれません。

2018年度の振り返り 失恋について(1/1に書いたやつ再掲)

去年の振り返りをしようと思い文章を書き始めたのですが私の去年の成果は「失恋」です。そう、恋に敗れたことです。なぜ失恋が成果になったのかというと今まで恋もしていなかったしだから失恋もしていなくて去年は失恋できてよかったなって思っているからです。よかったと思っているのは冗談ではなくて、失恋したことで溢れ出てくる感情は今まで経験したことがないもので、その時は辛くてどうしようもなくてでもこんな気持ちになるのなんて最初で最後かもしれないと思い思っていることをスマホのメモにばあーっと書き出して、こんな気持ちになるんだ自分って、自分にとても感心しました。自分が今まで感じたことのない思いをすることを成果と言ったらおかしいでしょうか。でも私は成果と言いたいんです。こんな小説の中でしか知らなかった感情を自分も味わうことになるとは…。失恋した後はTwitterで少しそういう感情について投稿したりして周りの多くの人に「Twitter病んでない?」と言われましたが、自分的には病んでいるというより深く考えてそれを文字にしているというだけでそんなつもりはなかったのでびっくりです。まあ確かに痛いと言われればそれまでなんですが、私は自分の痛い文が好きなんです。あとで見返して、ああ私こんな感情になってたんだあってすることが大好きなんです。この文章だって痛いかもしれないけど、今しか書けないんです、こういう気持ちになっている。将来大人になった自分が、いまの私が書いている文章を読んでいい恋をしたんだねとか思えるそんな素敵な人になっていたらいいなって思うんです。そして少しでもいいから誰かに読んでもらって意見を聞きたいです。

とりあえず失恋したと言うことで今回のテーマは「どうやったら好きな人を忘れられるか。」です。
このテーマに本当に苦しんだんです!!そう、忘れるのってとても難しいです。しかも私の場合は好きな人は振られた後もよく目にする状況下にあったし、もうやめてほしいのにたまに連絡をしてくるんです。ブロックできない私も悪いのかな…。なんで忘れなきゃいけないってよく思ったけど相手がもう自分に依存するのはやめてほしいと言った以上、好きになるのは自分が辛いだけだから仕方ないと思います。
一回ね、恋に落ちてしまったらそこから這い上がるのは大変です。私の場合ですが、付き合ってなくて交際の申し込みでフラれる方がまだマシだと思います。私の思う恋に落ちるってもう相手の穴に落ちてしまって付き合うという依存の状況でしかやってられなくなってしまうってことだと思うんです。だから付き合う前の好きの段階は恋に落ちかけている状況でもし相手が「落ちていいよ」って言ったら落ちる、みたいな。落ちたら安定なんですよ。位置エネルギーが低くなってそこから出るには何かしらのエネルギーを自分で作り出さないとダメなんですよ。物理でやりました。誰でもわかるか。理系ぶりました。とにかく安定して少ないエネルギーでいられる居心地のいいところに本当はずっといたいんです。でも相手に出て行けと言われたら仕方がない。


少し自分の話をします。
去年は二人の人と付き合ってそれぞれ自分の誕生日とクリスマスに振られました。なんでわざわざこういう言い方をしたかというととりあえずかわいそうだなって思って欲しいからです。でも本当にそう思って欲しいわけではなくかわいそうな人の話ってみんな聞いてあげたくなるだろうから、この先の文章も読んでくれるかなって。実際は振られたらどんな日であっても辛いものですよね。あと本当のことを言うとこの前フラれたのはほとんど辛くなかったです。だからいまこんな冷静?に文章書いているし。
当たり前のことを言います。
人を好きになるということは自分一人では得ることのできない大きな幸せと自分一人では受けることのない大きな苦しみのどちらもが訪れる可能性があります。幸せはもうそのままでいいしそれを持っている人を見ているとどうかそのまま幸せなままでいて欲しいと思います。でも苦しみがきてしまったらそれをどう対処するかは誰もが抱える大きな問題だと思います。
その苦しみの一つについての対処の仕方について書きます。
「好きな人を忘れること。」これのなんと難しいことでしょう。簡単に忘れられると思っていたわけではないけどここまで難しいとは思いませんでした。ここまで好きにさせた相手がすごいというより、なぜ自分がここまで相手に依存することができたのか自分で自分に驚きです。
とにかく色々考えた結果以下の三点がとりあえずの解決策です。

⒈好きな人の価値を自分の中で下げる
⒉新しく好きな人を見つける
⒊時間を待つ
⒋他の趣味に打ち込む(これは納得いっていないがみんなが言っているから一応)

まあ当たり前だろって思うかもしれません。でも私は自分の中でどうしても譲れないことがあります。
それは⒈好きな人の価値を自分の中で下げる、ということだけはしたくないんです。
よく、友達が失恋したり恋を諦めた時に、そんな好きでもなかったとかクズ男だったとかあとはまた新しく恋人ができたら「いまの彼氏の方がいい」とか言います。でも本当は、いま好きではなくなっても一回は好きになったはずだし、クズ男であることと恋をすることとは関係ないし、今は今の彼氏が好きでも今の方がいいと比べられるものでもないのに。
はっきりいって好きな人の価値を自分の中で下げるということが一番好きな人を簡単かつ素早く忘れられると思うんです。あれは黒歴史だから忘れるわって。でもどうなんでしょう。一回好きになってしまった人のことをそんな風に忘れるのは私にはどうしてもできません。できればずっと好きなまま忘れたいんです。意味わかんないな。できればずっと好きなまま好きになってもいいという許可を出してもらうことをはっきりと諦めたいんです。

友達が、好きだった人のことをそんな好きでもなかったかもと言うと少しがっかりします。本当にそうならいいんですけど、負け惜しみが入っているならがっかりするんです。私はそんな「そんな好きでもなかった」と言う人より「好きだったけど叶わなかった。相手が素敵な人すぎた。」って言う人の方が素敵すぎると思うんです。これは好きだから相手には自分以外の人と幸せになってほしいとか全くの嘘を言ってほしいとかではなくて、自分がその人に恋をしてもしそれが本当にいい恋だったとしたら自分が恋に敗れたことさえも素直に認められると思うんです、だって素敵な恋だったらそれが叶わなかったくらいのことでそれをなかったことにしたいとは思わないはず。
素敵素敵言っていて私のことを独りよがりで自分の恋が素敵だったって言いたいだけだろって思うかもしれません。でも素敵だったんです。私にとってはとても大事な恋だったんです。忘れたくないんです。同意してくれなくてもいいんです。

とここまで話すと結局一度好きになった人を忘れることなんてできないと私は思うわけです。でも忘れなくても思い出にすることはできます。

だから⒉新しく好きな人を見つける、と⒊時間を待つ、にしました。実は私には打ち込める趣味がないんです。周りの人には趣味があればさみしくないよと言われました。でももう私は無理に趣味を作ることを諦めているし、このなんでも興味を持ちかつすぐに飽きるという性格を気に入っているのでいいんです。だから4番はできないし(正確に言うとまあ友達と遊ぶとか興味を持ったものをやってみるとかありましたがその場しのぎというかそれをしている以外の間は結局考えてしまうので)2番はかなり難しいし、3番はかなり時間がかかる。ああああああああってなりますよね。でも仕方がない。1番はどうしても嫌だから。好きな人を嫌いになるっていうのはそれまでの自分も否定することだと思うんですよ。そんな悔しいことはしたくない。
愛は憎しみに変わるといいます。その通りです。好きであればあるほどなんで好きになってくれないのってなるし。でもそういえばいいと思います。相手の価値を低くいうよりは、なんで好きになってくれないの!!!っていう方が私は私のプライドを守れているような気がします。

実際に2番と3番をやってみた結果をお伝えいたします。フラれた後は絶対好きな人を見つけてやると意気込んでおりました。実際できると思っていました。たくさんの人とデートしたし、出会い系にも登録したし(これは本当に病み期)、寂しさを紛らわすために人を傷つけることをしました。本当にごめんなさい。でも全く後悔していません。高校生の時はみんながやっていることを一緒にやってその中で上位を目指すということだけをやってきていましたが(運動とか勉強とか)でもやっと2018年に大学生になり自分一人だけのベクトルでものを考えられるようになってきました。こんなふうに自分で考えたからこそ人をあっけなく傷つけてしまったし自分のことも傷つけました。リストカットって気持ちいんですかね。私はそうやって自分のことを傷つけてとても気持ちが良かったんです。
少し話は変わりますが、私は東大が好きです。受かって良かったと思います。まあもちろんそれは日本一だし家から近いし学費も安いしカテキョをすれば楽にお金が稼げるし何よりも周りの人が素晴らしいというのはそうなんですが、そうではなくて自分が好きなように生きていけるから好きです。他の大学でもそうだったかもしれないですが、私的には東大にはいろんな方向性の人がいてどんなことをしていても許される感じがするんです。だから私が思うがままにテキトーに生きていても誰も気にしない。むしろばかなことをしている方がみんな面白がって話を聞いてくれるくらい。いいところですよ。

そうやってテキトーに生きていて結局忘れられたか。忘れられるわけないじゃないですか、ちゃんと思い出にしましたよ。最近他に好きかもって思う人も出てきたし。それが無理だったとしてもそう思えているだけで進歩だと思いますね、はい。もしその人が「恋に落ちてもいいよ」って言ってくれたらまた私は落ちてしまうんでしょうね。でも楽しいですよ、落ちるのも。勉強も運動も友達と遊ぶのも文化的なものに親しむのもそれぞれ楽しいところがあるように楽しいんです。

余談ですが、最近授業で西洋思想史をとりプラトンパイドンを読んだんですね。そこには霊魂不滅の証明が書いてあるんですが、それをきっかけにして、死について考えることが多くなりました。なんで生きて死んでいくんだろう、そんなことを考えていても答えは出ないんです。でも考えるのをやめることはできない。だっておかしいから、なんで私こんなところにいて、生きていて、そして結局死んでいくんだろうって。納得いきません。生きていることに理由を見出したい。でもそうやって何かの理由をどんどん考えていくと絶対に何か仮定にぶつかってしまいます。先日その仮定は究極目的だということを教えてもらいました。どんなことにも理由が必ずあるというわけではないのかと思い、生きていることに絶望を感じました。でも今絶望しているからといって今すぐ死のうとはならないですね。万が一にでもこれからの人生で生きている真の意味がわかるかもしれないから。
それでなんでこの話をしたかというと、そうやって一つ一つのことにいちいち理由はないということに気が付いた年でもあるんです、2018年は。だから私が、美しいと思ったり好きと感じたりする感情にもいちいち理由はないのかもしれないんです。そうやっていちいち意味を考える必要のない私の感性に従って生きていくのは楽しいしとても楽なんです。だから美しいと思ったものを見たいし聞きたいし好きな人と一緒にいたいしできれば多くの人から好かれたいです。欲望ばかりですがこれが私の哲学かもしれないです。

あとでこの文章を見返したら、きっと痛いこと書いてるなとは思うんですけどそれでも書きたいからこれも仕方ないですよね。未来の自分がこんな痛いことを書いた自分を許してくれる器の広い人であることを願います。読んでくれてありがとう。