さくらちゃん教

誰かの言葉に魅せられて離れられない時ってありますか。その人を尊敬し、その考えを尊重しそこに重きを置いて行動した時、それはもう宗教なのかもしれません。

”メンヘラ教”から”ポエム教”に改宗しよう。

もうおしまいだ
とあなたがいった
そうね
わたしは年をとった
時雨にぬれる木の葉も
かつての約束の言葉も
色あせてしまったから

あのころ わたしは
夜の衣を裏返して来た
あなたが触れた表地に
いだかれ 素肌で感じていたい
どうか夢で会えますようにと
あなたを想い 袖を通した

いまでは
花の色も あせてしまった
桜に降る 春の長雨
ほんのひととき
移ろう恋に身を寄せた
かつての私は 綺麗だった

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今はとて 我が身時雨に ふりぬれば
言の葉さへに うつろひにけり

いとせめて 恋しき時は むばたまの
夜の衣を 返してぞきる

花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに



今の私は、本当にこれで正しいのかどうかわからないような恋愛をしている。まさに試行錯誤って感じ。あまりにも大学生!という感じの恋愛をしすぎて笑えるけど、それでもこの形でしか、必死な形でしか恋愛できないから仕方がない。いつでも、あまり余裕がない。

この歌を詠んだのは小野小町。彼女は美人で強気な女だった。言い寄る男も数知れず、若い頃はたくさんの男と遊んでいた。そんな彼女も、ある時、一人に本気の恋に落ちてしまう。けれど、男はハーレムが認められたこの時代、恋に落ちた相手にも小野小町以外の女が何人かいた。そうして、彼女はどうしようもできない嫉妬とともに恋に苦しめられやつれていく。そうやって、恋と若さを失っていった彼女へ、本当は昔から想いを寄せていた小野貞樹から送られた愛の歌に返した歌が、百人一首のうちの一首としても名高い三つ目のこの歌。

絶世の美女として名高い彼女も、苦しい恋を知って大人になった。そして、結局、自分のことをずっと想ってくれていた男と幸せな恋をする。

色々、悩むこととか、若気の至りで相手を傷つけてしまうこともたくさんあると思うの。というか、幸せを噛みしめる時間なんてほんの一瞬で、どうしていいかわからない時とかの方が随分と多い気がする。誰かに恋に落ちたとしても、もしかしたらそれも、幻想かもしれない。私は、だいたい、周りの人の恋愛を見ていて、ほとんど全ての人が恋に恋している状態なんじゃあないかと思うもん。いいや、私の恋は特別だ、彼への気持ちも本当だ、って反発する人もいるかもしれないけど、そういう自分の恋は特別だって考えちゃっているところが、恋に恋している状態なんじゃあないかと思うのよ。恋に恋していない人は、もっと冷静で、そんな焦って主張したりしないんじゃない?
でも、そういう恋をするのは楽しい。たとえ、恋に恋していたとしても、その瞬間は私はあなたの特別で、あなたは私の特別。物語の主人公になったように感じるの。そして、物語には終わりがある。辛い終わりがあったとしても、そこまで含めて物語。そう何個も物語は作れない、大人になるにつれて作りにくくなってしまうんじゃないかと私は思っているから、今私は必死なんだよね。

それにしても、この時代の女は嫉妬をしたときにどうやってその気持ちを発散させていたんだろう。
この時代だと、たとえ結婚をしていたとしても、基本、女は自分の部屋で夜に男がくるのを待つことしかできない。毎日毎日好きな男を待ち、もし来なかったら、今夜は他の女の人のところへ逢いに行ってるんだろう、とか考えてしまうんだろうなあ、と妄想したりしてなんだか私まで苦しくなってくる。つらいなあ。絶対やだな、そんなの。
そのやり場のない想いを歌にして、こういう風に今世まで残っている。

別に、私のポエムを来世まで残すつもりはないけれど、自分の想いを言葉に変えることに、いつしか私は虜になってしまった。そしてそれを誰かに見せることにも虜になった。





あなたは 私の熱い肌
触れもしないで 世界を語る
本当の世界は ここにあるのに

春はみじかく 浮世は夢よ
あなたの腕を たぐり寄せ
手のひらのうえ はずむ私の胸ふたつ

黒くてきれいな わたしの髪も
あなたがふれた 心臓も
みだれ みだれて 朝になる

恋する女の くちびるに
つやつやグロス 毒入りの
滑らせたいの わかるでしょ

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やは肌の あつき血汐にふれも見で
さびしからずや 道を説く君

春みじかし 何に不滅の命ぞと
ちからある乳を 手にさぐらせぬ

くろ髪の 千すじの髪のみだれ髪
かつおもひみだれ おもいみだるる

人の子の 恋をもとむる唇に
毒ある蜜を われぬらむ願い


これは与謝野晶子の『みだれ髪』

すごい官能的なのよ。だけど、ちっとも嫌ないやらしさがない。むしろ、好きな男と寝たのに、なんだか切なさを感じているように私は思える。さっき、恋する女って、自分の恋は特別だと思っているって書いたけど、それって別にロマンチックでいいことなんじゃない?恋するときだけは、その二人は物語の主人公になったような気分になって、自分達だけが、この暗い夜の中に二人きりみたいに感じる。孤独だけども、二人でいればそんな孤独も二人が愛し合うためのスパイスになるわよって感じ。
こういうのを詠むと、女の想像力って男とは比較にならないと思う。男はエロ本でも読んでなって感じだけど、女はそんなところに官能を感じないから。



次に、クリスティーナ・ロセッティのWhat are heavy?を日本語訳で。彼女のことはよく知らないけど、この歌は好きだなって思った。


重いものは
海の砂と悲しみ

短いものは
今日と明日

はかないものは
花と若さ

深いものは
この海原と真実

あなたと出会い
わたしは知った

染まるものは
空と体

見えないものは
夜の虹と嘘

やさしいものは
春風と面影

続くものは
水平線と祈り

あなたと離れて
わたしは知った



ポエムって、思ったことやあったことをただ論理的に言語化すればいいわけじゃあなくて、その時触った肌の感触とか、目に映った雲の形とか、実際は五感で感じたものをただの「言葉」だけで表現して伝えられるかどうかで、それが上手にできる人は詩人であったり小説家であったりの才能があると思う。
この詩は、五感で感じたものを言葉とそのリズムで表現しているまさにそのもの、という感じがする。しかもこれは言葉が綺麗だし技巧的。翻訳が素晴らしいというのもあるんだけど。こういう詩って、優しくてすんなり受け入れられちゃうのよね。何回読んでも心地よい。こんな詩を書くなんて素敵な女の人だったんだなと思ってしまう。わたしも、男の人に対して、あなたと出会い わたしは知った、っていうこれを真似た詩を書こうかなって思ってる。ちょっとダサいけど、なんだかいいものができそうじゃない?こういうロマンティックなのが好きな19歳の自分、ダサいかもしれないけど嫌いじゃないんだよね。

たまに、言葉っていかに無能かっていうのを突きつけられるときがある。自分が発した言葉通りにいかないときとか。
ずっと愛し続ける、とかありえないし私はそんな言葉絶対言わないけど、でもそういう言葉を言う人の気持ちもわかる。その言葉を発したときは本気でその気持ちになっていたんだろうなあって。言葉に責任なんてあまり負えない。
それでも、ポエムはそのとき本当に思ったことを書くから、責任とかどうでもよくて、その瞬間の気持ちを、写真を撮るように思い出としてきり取っておく。責任を負わない言葉って、とても素直で、傲慢で、私は好き。自分の中だけでいい。相手に見せるとしても、相手もその言葉に責任を負ってないことを多分無意識にわかっているから、もしかしたらいつもの直接の会話よりもダイレクトに気持ちが伝わっているかもしれない。

メンヘラって、誰でもなる可能性を持っていると思う。でもその時に、ただ誰かに対して、鬱。。。と嘆くのでもいいけど、想いを言葉にするとまた違った楽しみが増えると思っている。どんなにつらいときでも、それを言葉にしておいたら、後に辛い時期が過ぎてから見返すと結構面白い。だから、どうせなら、つらいときは気持ちを言葉にするのを今回お勧めしたかった。
別に恋愛の時だけじゃなくても、仕事がうまくいかなかったり、友達にすごい嫉妬したり、大きな怪我をしたり、なんでもいいんだけど。
逆に、幸せなときでも書いていいと思う。言葉にしたいほど幸せなときは、言葉にするべきなんだよ。忘れたらどうするの。忘れなくても私は言葉にしてとっておきたい。
ただの日常を言葉にする。そんなのもいい。もうなんでもいいね。



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参考書籍:『超訳 世界恋愛詩集』←とてつもなくオススメ。もっとたくさん、世界中のいい詩が載ってる。